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山寺の前を流れる立谷川は最上川の支流である。この流れにそうて下り、更に最上川の支流寒河江川を遡れば寒河江市で、瑞宝山慈恵寺はそこにあり、修験の霊山葉山の前建てとされる。これも一山寺院である。もし晴天ならば月山と尾根を連ねた白銀に輝く葉山をも心ゆくまで見ることができたであろう。しかし、生憎の雪であるばかりか、夜に入ってあたりは次第に暗くなって来た。木造から鉄骨に代えられてはいるものの、なお昔の面影を残したアーチの臥龍橋があるはずだが、それもいつ渡ったとも気がつかなかった。三院十六坊と言われるそのいずれかであろう、それぞれに建て物の見える高い石垣の間を曲折して登り宝蔵院を尋ねると、僧衣をまとった住職が迎えてくれた。待ってでも頂いていたように、部屋はガスストーブで温められていた。先頃本堂から法華曼陀羅仏像群が発見されたと騒がれたことがあった。話が自然とその事になると、住職は立ってこれがその一つだと、軽々と仏像を持って来て座卓に据えた。文殊菩薩坐像だとの事で、彩色も剥げ落ちていないが、一見して地方作家の手になるものではなく、製作年代も相当古いもののようである。夜も深まったようなので、明朝を約して辞し宿に入った。
寒河江市にはいい温泉がある。体をほぐして床についたが、私はかつて、幾度か通った道を今また行こうとしている事を意味深いものに感じながら、夢見るともなく夢見ていた。寒河江川に沿うて遡る道は、いわゆる六十里越街道で、やがては湯殿山を越えて遙かに大日坊、注連寺へと達するのである。 明けても雪は降りやまず、境内には、左右にいくつかの堂をはべらせた本堂弥勒堂、三重塔や重層の仁王門がシンと鎮もっていた。いつか来たとき舞楽を行なうのだといって、この山門から境内へと舞台を組んでいた。あれは確か五月ごろで、私は見ずにしまったが、舞楽を宰領する林家は山寺の舞楽も司ったといわれ、慈恩寺が山寺と陰に陽に係わりのある事を示している。敢えて触れなかったが、山寺も山岳宗教修験の山で、山寺をこの方面からみて研究している人もある。何よりも祖霊の行く山として、宗派を越えて人々が参るという事がこれを示している。慈恩寺は婆羅門僧正が創立したと伝えられているが、これも天台修験の確立したもので、後に真言修験が入り込み、今では天台真言両宗を称し、奈良興福寺の願西上人によって再興されたという故を以て、法相宗にのっとって儀軌を取り行なっているのである。
茫然として雪降る中の堂塔を見入っていると、住職がみえ本堂に案内して下さった。打ち見たところ山寺の根本中堂とさして違いはないが、正面の階段を上がると板の間になっていて、駿馬を描いた大きな額がかけられ、天井いっぱいに天女が描かれている。内陣には国重文の阿弥陀如来坐像をはじめ、昨夜話題になった法華曼陀羅仏師群等々数々あるはずだが、雪囲いで暗いのである。おろそかに見過ごして境内に出たが、たまたまこれから湯殿山を越えて行こうとしている大日坊に、肉髻がそのまま伸びて男根の形をなしている飯山白衣権現という立像があると話すと、それならここにもあると言って住職はわたしを更に傍の堂のひとつに案内された。仏像群がぎっしり並んでいる。しかし、ここも暗く、これだと示された坐像もしかとは見分け難い。慈恩寺は葉山の前建てとは言いながら、葉山信仰は広範な勢力を持ち、今は羽黒山、月山、湯殿山がそう呼ばれている出羽三山も、元は羽黒山、月山、この葉山を以て三山と称された事があったという。その葉山も荒廃し、慈恩寺のみ僅かに威容を保っているのだが、この慈恩寺も山寺と同様幾度か戦乱火災等を受けたのをその都度再興されて今日に至っているのである。仏像群だけでもよく保存されて来たと驚かれる上に、多くの古文書も残されているという。しかし、雪はいよいよ降りしきり、しきりに先が急がれた。このぶんでは湯殿山越えは難しくなる。もし湯殿山越えができなくなれば、昨夜夢見るともなく夢見までしていた何ものかが失われることになる。かつて何度か通って来た道は即ち我が人生であり、その人生を再び辿る喜びを断念しなければならぬという思いに、ほのかながらつながっていたのかもしれない。慈恩寺を辞し早昼をすますために「慈恩寺そば」という店に入った。寒河江市は聞こえたそばどころで、ここのもなかなかうまかった。それに古風な店づくりで、主人は親切になんども電話で湯殿山越えの道の状態をきいてくれた。しかし、積雪のため湯殿山越えはついに断念しなければならぬことを知らされた。
この道は通常湯殿山裏口と呼ばれているもので、もしこれを断念するとすれば寒河江川を引っ返し、本流最上川沿いに下って、尾根を連ねる葉山、月山の山形側の山麓を迂回半周し、庄内平野に出て六十里街道をあらためて表口から湯殿山へと入らなければならない。その六十里街道も十王峠を避けて梵字川ぞいに新道がつくられてからは、十王峠から注連寺、大日坊、湯殿山へと行くべきものを、まず大日坊を尋ね十王峠へと引き返して注連寺へと行かねばならなくなった。湯殿山表口別当寺として大日坊に優るとも劣らぬ繁栄をみせていた注連寺が急速に衰えて行ったのもこのためだが、それはさておき雪降る中に最上川を見るのもまんざらではない。寒々と黒ずんだ満々たる水が、すでに街々も雪景色になった両岸に迫る山の間を流れている。こうした時を選んで舟下りする客も少なくないのである。しかし、私はなお心に湯殿山のことを思い浮かべていた。
いつだったか、私は一度ちょうど今頃湯殿山に行ったことがある。湯殿山といっても山中の大渓谷で、それ自体は山ではない。もう閉じていてさすがに参詣客の姿もなく、いちめんに蒼く薄雪でおおわれた千人沢から奥へと入ると、山が狭まって茶褐色の大岩石があり、湧出する温泉が岩肌を濡らしてせせらいでいた。これが芭蕉も語ることを憚った秘奥の地、出羽三山中の奥の院とされ、梵字川の源流にもなっている。かつては千人沢に集まった修験者たちが、五穀十穀を断ついわゆる木食をし、日々ここを拝して千日、二千日の苦行をして広く世に霊験をほどこし、みずから土中入定して即身仏(ミイラ)になった。大日坊、ことに注連寺系の寺々にそれが多い。私は山寺に入定窟と呼ばれる所があるのを聞いて、そこに収められているという金棺には慈覚大師の即身仏が眠っているのではないかと思ったことがあったが、それは単なる思い過ごしで、その後調査で金棺を開くと僧侶の顔の木彫りと五体の人骨かおり、中に女とみられる骨も混じっていたという。
梵字川ぞいに遡って湯殿山大日坊に着いたときはもう夜に入っていた。石段にはすでに雪が深く、仁王門は雪囲いされていて、迂回してようやく境内に入らねばならなかった。雪明かりの中に何やら開山堂らしきもの、鐘堂らしきもの、観音堂らしきものを眺めながら本堂に近づいた。元々この大日坊はもっと奥にあり、地滑りで梵字川の支流大網川へと崩れ落ちたのを機に、境内の杉を売り本堂もろともバス道に近い現在の位置に改移築したのである。私が初めてここを訪れたときは、まだ崩れ落ちた本堂諸堂が狭い大網川の渓谷にはだかって巨大な残骸を無残に曝していた。しかし、この大胆な改移築によって、覇を競って優るとも劣らぬ勢いを示していた注連寺との隔差を大きく開く事になった。大日坊はバス道に近づいたためになお観光客が立ち寄ることになり、注連寺はこうした客からも見捨てられて行った。遠く風に乗って大日坊の鐘の音が聞こえると、注連寺のある七五三掛の人々はああ、また大日坊に客が着ていると嘆いていたものである。
本堂に入ると執事が電燈をつけて煌々と堂内を照らしてくれた。驚くほどの仏像群である。曼陀羅の掛軸等である。ここも火災にあったりした事があるというのに、よくこれだけのものを残したものだ。いささか勝手を知っているので回廊にまわり、そこにも並べられている仏像の中にあるれいの肉髻がそのまま伸びて男根になっている白衣権現立像の前に立った。どうしてこんなものが作られているのか。まさか立川流が入り込んで来だのではあるまいが、ここもむろん修験と関わりがあるから、道祖神的なものが融合したのか。それとも、真言宗は万物を全胎両部に分けて考え、湯殿山のあの大巌石も女陰の形をし、それを胎蔵界大日如来としているから、金剛界の仏としてこんなようなものが作られたのか。あれこれ考えながら慈恩寺の仏を思いだして、むしろ遙かに遠く来たという感慨を覚え、真如海上人の即身仏の前へと歩みを進めた。法衣に飾られながら両手を組んだ両膝の前に垂れ小さく蹲っている。寺伝によれば真如海上人は眼病の蔓延を憂え、生前みずから左眼を抜いて神仏に捧げたという。注連寺にはその広範な業績によって即身仏中もっとも知られた鉄門海上人のそれがあるが、これも左眼を抜いたといっている。そういえば両寺はともに湯殿山を山号とし広い意味での一山寺院で、梵字川に金字の真言アビラウンケンが流れ来るのを見て遡り、湯殿山を胎蔵界大日如来と観じた弘法大師の開基によると伝えている。湯殿山は女人禁制であったので、これを信仰する女人たちは十王峠を越え、これら両寺のいずれかに詣でて帰ったものだ。
そもそも、出羽三山と呼ばれる羽黒山、月山、湯殿山はすべて真言宗であったといわれている。それを羽黒山の天宥上人が黒衣の宰相といわれた東叡山寛永寺の天海上人と結び、あげて天台宗に改宗させようとした。それに対し湯殿山側の諸寺院は結束して真言宗を守った。藤原四代ミイラはいわゆる即身仏とはいわれぬにしても、即身仏は天台宗にもあるかもしれない。また湯殿山側の即身仏は天宥上人による羽黒山との抗争以前にもあったかもしれない。しかし、天宥上人によって天台宗に改宗した羽黒修験からは一体の即身仏も出ず、湯殿側修験からは羽黒山の天台宗に対して、熾烈に真言を守るようになってから、多くの即身仏を出すようになったと思われる。してみれば、大日坊と注連寺は道もかつては十王峠からまず注連寺を経て大日坊に至るというような事はせず、おのおの直接それらに至るものをもっていたというほど、互いに覇を競って今もその尾を引いているとはいえ、それはむしろ強い類似を持っていたからではあるまいか。
注連寺も火災にあって再建された本堂の伽藍と二階建ての大きな庫裡を残すばかりになったばかりか、私が初めて訪れたときは、屋根に積もった豪雪の雪崩で傾いた伽藍に押されて庫裡までも歪み、殊に庫裡などは仕切りの襖も天井張りの板もなく、ガランとして廃墟のような様相を呈していた。目ぼしい仏像群はむろん、確たる記録もない。それに、その業績でよく羽黒山の天宥上人に比べられる鉄門海上人の即身仏さえ出開帳されたまま行方不明になり、あれは火災のとき焼けたので、じつは行き倒れのやっこを燻してつくったミイラなどというあらぬ噂が囁かれていた。事実、そこでつくられたという萱葺きの土蔵が建っていたという場所まで教えられたのである。私はその噂を信じるともなく信じて噂のまま『月山』に書いたが、その後各地を転々として行方知れずになっていた鉄門海上人の即身仏が京都で見つかって無事注連寺に戻って来たばかりか、その手の指紋が、酒田市海向寺に残された鉄門海上大の生前残した手形のそれと一致することがわかり、噂が噂に過ぎなかったことが証明された。と同時に、どうしてそんな噂が出かのか、そのよって来たるところも明らかになった。
私はふと注連寺の全景を描いた古い木版画を見せられたときのことを思いだした。そこには一山寺院にふさわしい山門、鐘堂があり、また裏山にかけて幾多の堂があった。おそらく、大日坊の本堂、諸堂に似たものであったろう。さすれば、注連寺にも大日坊に劣らぬ仏像群があって、なかには飯山白衣権現のように肉髻がそのまま男根になったようなものもあったかもしれない。大日坊を知ることはかつての注連寺を想像するに役立つだろう。雪は降りやまず、車はチェーンを巻いても走るに困難なほどになった。やっと注連寺に着くと、本堂の雪のかぶった銅葺きの屋根は雪降る中に大きく棟をそらせている。本堂の大きさからいえば、これまで見て来た寺院のそれよりもっとも大きい。靴も取られるほどの雪になっていたが、彼方につづく二階建ての庫裡にはあかあかと電燈がついている。村人が来て私を待っていてくれるのかもしれない。私ははるばると遠く雪の道を来て、ようやく庫裡に辿りついたような心地になった。
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