与謝蕪村筆「奥の細道屏風」の一部


羽黒山別院があった南谷。山形県指定史跡。
   俳聖松尾芭蕉(1644-1694)が門人曽良を伴って奥の細道へ旅立ったのは、元禄二年(1689年)三月。”みちのく”を巡る約六百里(2400km)5ケ月におよぶ行脚は、幾多の困難をともなったが、それぞれの土地の物珍しい風物や人情、風俗に触れ、貴重な文化遺産となった紀行文「奥の細道」を生む実り多い旅となり、県内でも多くの名句を残した。出羽三山には、六月三日(新暦七月十九日)から十日まで滞在。この間、五日の羽黒山をはじめ、八日、月山、同日帰途湯殿山と三霊山をくまなく踏破しこの霊気漂う神域に、深く感動した。道すがら、六十里越街道を行き帰するお行様の列とも一緒の旅となり、三山参りの思い出に花を咲かせたことだろう。この機会に、「奥の細道」を見直すためにも、出羽三山関連の「奥の細道」の一部を掲載した。

 芭蕉と曽良が出羽三山の門前町羽黒手向に致着したのは、六月三日(新暦七月十九日)の夕暮れ。祓川を渡るころには、日もすっかり暮れ、南谷の別院に着くころには、木々の間から星がこぼれていた。「六月三日、羽黒山に登る。図司右吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において俳諧興行。」

  五日、いよいよ三山参りのスタート。断食してシメを掛け、まず精進潔斎。羽黒権現に詣でる。「五日、権現に詣づ。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり、書写、「黒」の宇を「里山」となせるにや、羽州里山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当時、歩江東叡に属して、天約止観の月明らかに、円頓融通の法の灯がかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊他の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき御山と謂つつべし。」


 好天の八日、強力の案内で月山に登る。月山は標高,1980m。芭蕉にとっては、生涯で一番高い山への登山となった。 「八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るのかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕はる。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、雲水を撰びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬ぐとかや、干将・莫耶の昔を暮ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花 の心わりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあは れもここに思ひ出でて、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるざす。坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
涼風やほの三か月の羽黒山
桃青


雲の峯いくつ崩れて月の山
桃青


かたられぬゆとのにぬらす袂かな
桃青

 六月十日、羽黒に別れを告げ、庄内藩の城下町鶴岡に、十三日朝まで滞在して出羽三山の疲れをいやし、舟で赤川を下り、(当時、赤川は最上川へ合流)酒田へと向かった。

賑わう湯殿山祈祷所付近 庄内領郡中勝地旧蹟図絵 「 鍛冶オロシ難所 」

制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所