登山者で賑わう月山山頂付近

  月山・湯殿山・羽黒山は平安時代の昔から出羽三山と称せられ、東北における修験道の中心地として一般民衆の信仰が厚く、東国三十三ケ国の総鎮守として紀州熊野・豊後英彦と並び称された霊山であった。月山・湯殿山・羽黒山を三権現あるいは三所権現ともいい、三山というようになるのは元亀・天正(1570-92)の頃からである。それ以前は羽黒山・月山・葉山を三山として、湯殿山は「総奥之院」としていた。 古来より山は日本人にとって神そのものであった。庄内平野の上に大きな月がその頭を出したような形の月山と、その稜線につらなる羽黒山・湯殿山の姿は東北の霊山と呼ぶにふさわしい神々しさをたたえる。古代の人々はその峰々に神々が宿っているものと信じ、そこを神域として、己が現在犯している罪や汚れを清め祓う神聖な場所と考えていた。また、人が死ぬとその魂は深山に移り住み、そこから我が子孫の繁栄を見守っていてくれる。ことに夜中に月明に反射して闇の中に白く浮かびあがる月山を、このような事から『月の山』とよばれ、”死霊の集まる山””阿弥陀如来の極楽浄土”としてのイメージを強く与える事になったのであろう。


 日本の古代信仰は人間が神の宿る山から魂をもらって現生に生まれ、死ねばまた魂は山に帰るという山岳信仰であった。後に陰陽道や道教が渡来するに及んで仙人崇拝の思想が生れた。やがて仏教が示来すると山林寂静の地を選んで行屋を設け、密呪を唱え印を結び経を読むことによって超能力(威神力)を体得し、国家を守護し、天変地異を鎮め、病者を治癒する事ができるようになると信じられ、山岳信仰は急速に発展していく。最澄・空海という天才的僧侶の出現によって、いわゆる山林仏教が生まれ、修験道の基盤がようやくここに成立する。


 出羽三山の修験は羽黒派に嘱し、冬期でも登拝可能な羽黒山を基盤に湯殿山・月山と回峰修業した。本来「お山詣り」というのは出羽三山を回峰参拝する事であるが、江戸時代に入り、主に三山の主体は湯殿山であると考えられるようになって湯殿山詣りを「お山詣り」と言うようになった。六十里越街道はこの「お山詣り」とともに、江戸時代に入って全盛をきわめて宗教道路として栄えていく。



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所