羽黒山の豪壮な合祭殿が描かれている 「 庄内領郡中勝地旧跡図絵 」 の一場面 ( 鶴岡市立郷土資料館 )  

 ところで、六十里越街道の内陸側の基点となる城下町山形は行者たちの宿泊地であり土産品の購入地でもあった。鉄道やバス・自動車がない時代の、明治末年まで山形の主要駅は船町で、十日町が山形の繁華街だった。 明和六年(1769)に書かれた「山形風流松の木枕」には十日町の様子がこう記されている。「軒数は二百一軒半、小間物、金らんどんす、しゅす、絹布の類一切の用をここで足す」 また、山形における行者宿は八日町に限られていた。「八日町軒数百八十軒、六、七月湯殿山参詣の行人、関東より奥州道表までお客がいっぱい。どの家も五、六、七百人、千人宿りで幾万人になるかわからない。わずかニカ月のうちに一ヵ年の生活をかちうるというのは湯殿山のおかげではなかろうか」と、「風流松の木枕」の記事にもなっている。


 天明元年(1781)には二十五軒の行者宿が連署して旅篭町に行者を宿泊させる事に反対して申し立てている。八日町の行者宿では、蛤屋、佐藤屋、茶屋、辻屋、鈴木屋、長沢屋などの宿が特に賑っていた。 山形で売れた土産品は三山の掛軸、血の薬、子供腹巻、陶磁器、塗物、髪付油、麻布、真田紐、阿古耶紅、銅器、鉄びんなどであった。この山形北端にある下条には清水が湧くので茶店が栄えた。八日町を出発して約一里になるこの場所で行者たちは小休止した。更に、下条を出た行者は船町で須川を渡り、長崎で小休止し、最上川を渡って寒河江で大休止した。寒河江川の臥龍橋を経て白岩に入った。ここからは湯殿山の神域に入るので新しい草鞋に履き替え登った。川に水浴している子供を見つけると賽銭を撒く習慣になっていた。この白岩には十人くらいの馬子がいたが、谷地、寒河江、天童などよりくる馬子が100人ぐらいも集まって賑やかであったという。

白装束に金剛杖を持ち、昔と変わり
ない姿で山頂を目指す講中の人々
  「三山詣り」は毎年四月から始まり、旧盆には最も盛況を究めた。特に、丑年は峰子皇子が御山を開いた縁年にあたり平年の十倍もの参詣者があったと言われ、また湯殿山の縁年であった亨保十八年(1718)には15万7,000人に連したと言われる。したがって宿泊人数も非常に多く、一軒の宿屋に200人から300人となることもあり、ピーク時には八畳間に15〜16人が入り、それでも足らずに土間に小屋掛けしたり、物置まで利用して収容した。さらにあふれた者は付近の寺・民家に分宿したという。当然、寝具はいたって粗末なもので座敷にゴザを敷きつめ、それにごろ寝して上に掛け布団をかけるだけであったという。暖かい布団に寝なれた我々現代人からすれば到底達成できない至難の旅であったわけだ。
 だいたい、江戸時代「お山詣り」の一泊宿泊料は米三升。一升分が米代、一升分が副食物・薪代・その他の諸掛り料で、残り一升分が宿のもうけであった。食事は豆腐、油揚げ、コンニャク、あらめ、餅、きのこなどを使った精進料理で魚などは一切出されなかった。また、昼めし用に握りめし二個と香物が渡された。宿屋はただ食事と寝所の世話をするだけで、酒や餅、菓子などの欲しい人たちのために宿屋の片隅に出店が出た。夜になれば宿ごと提燈がともされ、夕飯を終えた一講は街道に出て踊りをおどったり、相馬からきた行者たちは合唱して踊り、あるいは地方によっては念仏踊りを披露しては互いのお国自慢を競ったとも言われる。


  一方、地元の朝日村でも「お山詣り」は根強く続けられてきた。「田植えの終わった七月から八月にかけて”オヤマメリ”に行く。全戸で一人は必ず参詣に行くべきものとしていた。出発前にはお宮に夜籠りし、水垢離をとり、火を混えないようにと別の所でご飯を炊いて一週間も精進した」と、地元の古老は語る。参拝のときは芭蕉の昔と同じように白衣を着て頭に宝冠という白布を結び冠りにして肩からしめ、大鳥川筋の部落などは午前零時ころ出発して夕方には帰るようにした。帰る時刻には村の人はサカムカエといって村外れまで迎えに出、一同は神社または集会所で一献してから家に帰った。代参の場合はお礼を配る。行衣や宝冠や賦袢は女手をかけないで自分で洗い毎年使うのできれいに畳んで神棚の隅に上げておいたという。


  また、正月二日に「初詣り」に登る部落もいくつかある。大網から塞の神峠を越えて田麦俣に出るが、雪の多い頃だから大変であった。更に本郷や行沢などでは十石峠を越えて大網まで出なければならなく田麦俣の人たちは全戸から一人は出て、二日早朝に峠まで雪踏みをするのが例であった。このように、「お山詣り」は広く庶民に深く信仰されていたのだった。



制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所