志津は内陸と庄内の中継所。大井沢から御番所の常夜灯が見えた。

  国道112号を更に庄内方面に行くと、右手に「月山参道、右岩根沢登山口」という立て看板がある。岩根沢は六十里街道から2キロほど奥まったところにある、出羽三山の七登山口の一つ、嘉慶元年(1387)に建てられた天台宗羽黒山別当末日月寺(岩根沢社務所)の門前集落だ。街道に戻り、水沢、石倉を過ぎると、七年前に壊して、今は無いが、坂の下茶屋跡に出る。先達宿坊の村横岫を通り、六十里越街道を横岫川沿いに八聖山の方向に300mほど入ると、そこから峠を越え本道寺の萱野、姥ケ原に通じていた。八聖山は出羽三山と峯続きで、八つの霊峰を信仰している行者にとって参詣すべき拝所だった。


 本道寺沢を越えたあたりから本道寺の集落にかけて、街道は湯殿山神社近くの上道と、宿坊が並ぶ下道に分かれ、湯殿山神社参道と聖坂でまた一つに結ばれていた。本道寺は湯殿山の正別当、真言宗当山脈慈恵寺宝蔵院末、月光院本道寺の門前集落として栄えてきた。江戸時代にはひと夏で三万人を越えた。幕末には、本道寺一山は戊辰戦争の戦火に合い、縮小・再建され湯殿山神社と改称している。
 明治32年の自由参拝になるまで、本道寺では行者から五十銭の献金をもらい、入山許可証を与えていた。行者の参拝コースは、着いたその日は指定の宿坊に案内され、翌末明に出発、志津で朝食を済ませて湯殿山参拝、志津に引き返して昼食をし、夕方本道寺へ戻って泊まるというものだった。ところでひと夏3万人もがどっと押し寄せてくると困るのが残飯。この残飯整理に駆り出されたのが鶏だった。しかし聖地では肉、卵の類は一切口にしない。そこで、その卵を下流の住民は「神様の下さりもの」といってありがたくいただいていたというエピソードも残っている。そんな賑いも、自動車時代とともに幕を下ろした。




 志津の入口には口留番所があった。文化六年(1809)の「印鑑張」他、数冊の文献に番所の存在を裏づけた文章が残っている。志津に入る手前に御番所跡とされる小高い林があり、そこには文化四年(1807)八月信夫郡飯坂の行者によって湯殿山に奉納された常夜灯がある。
  志津の集落は内陸と庄内の接点に位置し、湯殿山行者の宿場と、加えて庄内往還六十里越の村継場として発達した。この志津集落では、庄内側と内陸側から入ってきた品物が中継ぎされていた。庄内浜で獲れた魚や貝類の乾し物、ぼうだら、からかい、塩ます等やローソク類が、背負子と呼ばれる運搬人によって、庄内側より六十里越街道を越えて入ってきた。『朝日村誌(3)』には田麦俣の背負子の仕事が書かれており、当時の運搬状況がわかる。それによると、荷は十貫匁(約38s・女用)と十五貫匁(約56s・男用)に梱包され、大網から来た荷物が田麦俣の背負子に手渡され、志津へと運ばれた。ここには、本道寺・大日寺の賄小屋があり、行者に食事を出した。行者たちの食べる米は寒河江、谷地、小泉辺から求めたものである。現在は13軒の旅館・食堂が営業を行っており、月山に来る夏スキー客が大半を占めている



坂の下茶屋  図 9  岩根沢日月寺 図 8  岩根沢追分 図 7
坂の下茶屋だった木村市雄さん宅。7年前に取り壊して今は無い。 水ケ瀞坂の下の旧道。すぐ上を現国道が走っている。 皆川義川筆の版画
「岩根沢日月寺」
岩根沢は街道から2kmほど奥まった山里で、出羽三山の7登山口の一つ。羽黒山別当日月寺 ( 岩根沢社務所 ) は巨大な木造建築物で、かつての面影を残している。 皆川義川筆の版画
「本道寺・岩根沢追分」

志津 図 14 御番所跡  図 13 志津の旧街道 図 12 砂子関版画 図 11 本道寺湯殿山神社 ( 月光院本道寺 ) 図 10
皆川義川筆の版画
「志津」行者の宿坊として、また庄内との中継として栄えた。
大井沢からも、その灯が見えたという志津御番所跡の常夜灯。 御番所があった志津の旧街道。 皆川義川筆の版画
「砂子関」今は寒河江ダムの湖底に沈んで集落は無い。
月光院本道寺本堂。本道寺は湯殿山の東登り口として栄え、20軒を越える宿坊が軒を連ねて、行者で賑わった。

皆川義川筆の版画
「本道寺」
( 本道寺湯殿山神社 )





制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所