小説 「 月山 」 が生まれた大網。二百年、静かに眠る即身仏。

 
 六地蔵とイタヤ清水から約700m七五三掛集落に湯殿山表口の別当寺、注連寺がある。ここは作家森教氏の芥川賞受賞作「月山」の舞台としても有名だ。現在の建物は、明治20年の火災で消失した後、同30年の再建によるものである。ここは、湯殿山が女人禁制であったため女人の三山遙拝所として栄えた寺だ。注連寺には文政十二年(1829)入定した鉄門海上人の即身仏が安置されている。上人は仙人沢での修行の後、本明寺・海向寺を再建、南岳寺・西光寺・盛岡の金剛珠院・蓮正寺などを建立し、布教を行なった。文政四年(1821)江戸で眼病が流行したときは自分の左眼をくり抜き、眼病退散を祈願した。ほかに寛平法王画像、仏像の村指定文化財がある。本堂左後方に弘法大師にちなむ注連寺桜があり、本堂前には地蔵、境内には湯殿山碑が数多く建っている。大網には注連寺と並び女人の三山遙拝所として栄えた大日坊がある。庄内側から来た行者は、注連寺かこの大日坊で入山許可証を受け、田麦俣に宿泊した。


  大日坊の開基は大同二年(807)、弘法大師によるもので、正しい寺名は湯殿山瀧水寺金剛院という。ここには天明三年(1783)、96才で入定した真如海上人の即身仏が安置されている。また徳川家三代将軍の座をめぐり、竹千代君(のちの家光)の乳母お福(春日局)が祈願をかけ、寛永十七年(1640)、春日局により再建されたということも記録として残っている。この大網には参勤交代にまつわる話も残っている。
  庄内藩主の参勤交代通路は、通常清川から船で最上川を上り、舟形から羽州街道、奥羽街道を通り江戸へ行く。しかし一度だけ六十里越街道を通ったことがある。天保六年(1835)、昨年からの多雪のため、3月11日の朝、鶴城を出発しその日大日坊本陣に泊まることになり、大網中の老若男女から子供までが総出で雪道づくり。里方からも400人ほどに上ってもらい、雪踏みをしてもらった。行列は家来数百人、荷物は全部そりで運搬、殿様と高級役人は籠、それに女20人と医師も籠、その他槍持、長刀持、鉄砲持、高提灯持等というものものしいものだった。翌12日の明ヶ七ツ(午前4時)、500本の松明を用意して出発している。このことは大網村の百姓関谷五郎右ェ門の「稲帳」や大日坊旧記の一部「天保六年末三月十一日六十里殿様御通行ニ付大日坊御本陣ニ付諸扣」に残っている。



 現在ある大日坊の位置より500m南方に旧大日坊跡があるが、そこには樹高約27mの老松「皇壇杉」がそびえている。景行天皇の皇子御諸別皇子が東北鎮撫のため下向しこの土地で亡くなり、その墳墓に植えられたものとしてその名が付いたものだ。昭和27年県指定の天然記念物に指定されている。街道に戻り、朝日村一の大きさを誇る庚申塔(安永九年(1780)建立)を通り、大網上村から関谷へ行く途中に、大網御番所跡がある。この御番所は庄内藩の五ヶ口番所の一つで、明治5年の廃関まで、ここを通過する旅人や物資の取り締まりを行った。

皇檀杉  図 30  旧大日坊 図 29 森 敦 文庫 図 27  注連寺 図 26
大日坊境内に立つ「皇壇の杉」景行天皇の皇子が東北鎮撫のため下向し、この地で亡くなった。その墳墓に植えられたもの。昭和27年県指定の天然記念物。 旧大日坊跡。地滑りのため、昭和11年現在地に移された。当時は間口42間 ( 75.6m ) 幅12間 ( 21.6m ) の大伽藍であった。 注連寺境内に立つ森敦文庫。作家森敦が小説「月山」を出版したのを記念し、昭和61年8月に建てられた。 湯殿山注連寺本堂。湯殿山は女人禁制だったため、女人の湯殿山として建てられた。現在の建物は明治20年火災で焼失、同30年に再建された。

    大日坊 図 28
    春日局が二代将軍秀忠の病気平癒のため来山祈願したというが、実は竹千代君の三代将軍跡目決定のための大祈願と言われている。その時の祈願文を入れた箱。 大日坊本堂 ( 湯殿山滝水寺金剛院 ) 注連寺と同じく、女人の参拝所として栄え、真如海上人の即身仏が奉られている。 大日坊の山門。


制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所