南部方面からは山刀切峠を越え、大石田から船で下る者、あるいは境田を越え、小国向町に出て、ここから舟形で船に乗るか、清水もしくは本合海から船で下る者も多かった。 秋田横手盆地方面から来る行者は羽州街道を通り及位、金山から新庄に出てそこから本合海で船に乗った。古口は船宿で、下流には出舟、岩花の村があり行者船を見つけるとここの村の女衆たちは小舟で乗りつけ酒と餅を売って生活していたという。 古口から清川の間は峡谷で俗に山内と呼ばれ、陸路らしい陸路はなくもっぱら川船を利用した交通が行なわれていた。行者は清川あるいは狩川から上陸し、三ケ沢を経て羽黒山の宿坊手向に向ったが、ここで越後・佐渡からきた者や鳥海山の西麓を通って来る由利郡、秋田方面の行者と混じ合って羽黒山を詣でた。 庄内藩では大網に人改番所を設け行者を取り扱った。六十里越街道を利用する行者は注連寺か大日坊のいずれかで入山許可証を受け、二里ほど奥の田麦俣で宿泊する者が多く、そして、仙人沢を経て湯殿山に参詣した。ただし、女人禁制の月山に登れない庄内の婦人たちは大日坊か注連寺に参拝して帰るのが普通であった。
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