更に時代が経ち、三島通庸が山形県令になると道路の整備・開さくに大いに力を入れるが六十里越街道にはあまり目は向けられなかった。明治32年(1899)いわゆる大館藤兵ヱ道路といわれる大県道の着工がなされたが、大県道はできたものの、自動車もなく歩く時代では旧道より遠まわりになるので多くの人々は近道の旧道を往復していた。
自動車の発達に伴い、昭和7年から9年にかけて(田麦俣・大網・名川・熊出)大改修。昭和28年に2級国道112号に指定され、40年に一般国道となった。月山道路30.9キロは豪雪地帯でもあるために冬期間の交通確保のため大改修が行なわれ、56年全線開通。今まさに県の花形道路として大きく変貌しようとしている。
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大網から湯俣までの通行手形
( 鶴岡市立郷土資料館 )
一、大あミ村より湯俣迄、駄賃
馬合四疋、
右は六十里口相違
なくお通し下さるべく候、
其の為手形
此の如くに御座候 以上
申ノ六月廿八日
御番所
きも入 久右衛門 印 |
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