険しい湯殿山への道。松根に残る最上義光の悲話。
松根は庄内から湯殿山へ登るおりの玄関口で、行者の中には舟で最上川より庄内平野を流れる
赤川を上って松根の渡し、別名弘法渡しで降り、そこから険しい十王峠へと向かった。
歴史上にこの集落の名が出てくるのは、最上義光の弟長瀞新八郎義保の子である松根備前守光広が、六十里越街道の東西の要衝である白岩と松根の両城一万三千石を領していた元和(1614〜1625)前後の時代からだ。松根の首塚には哀れな伝説が残っている。慶長八年(1603)最上義光は、鶴岡の大梵字城にいた長男義康が謀反を計画していると聞き、高野山に誘い、途中の一里塚で暗殺した。義康の従者成田某は、主君の首を松根城の一地域に葬り、主君を弔うために子に最上院を建てさせた。その後、謀反は事実無根とわかり、義光は深く前非を悔い、義康の菩堤を弔うために山形市三日町にある「不動山明王寺」を「義光山常念寺」と改め、その霊を深く弔ったという。また一里塚の村人が遺体を葬り地蔵を建てたが、首が何度も落ち”首なし地蔵”と呼ばれるようになったという。
松根八幡神社から十王峠への登り道になる。天和二年(1682)、国目附保科主税が庄内に巡見に来た際に、家臣の南部郷右工門が記録した「大泉庄内御巡行紀行」のうちの「湯殿山之記」に、(前略)山みな赤土にして、すべる事ハうなぎのせを渡るより猶なめらかなり、坂きうにしてひたいにあたるがごとし、両手を提てほうて登らんとするに壱尺登りては弐尺もすべりおちる、ここにいたりちうちょして去る事あたわず、汗泪をながし居るに案内者杖をト指出ス、是に労を扶けられ漸打登り十四五丁行に、右の方ハ高山かさなり谷に二河やうやうと流るるあり、櫛引 川・八苦和川見ゆる此所別ながめと云、是より峠をのぽるに猶道なめらかにしてかき田のごとし、漸登て十王堂あり(後略)とあることから、かなり苦労して登っていたようだ。
この難儀な道の途中には、延享五年(1748)建立の庚申塔や直径1m位の赤松の下に山神碑そこから200mほど進むと元治元年(1864)建立の湯殿山碑があり、北に庄内平野、南には遠く月山・湯殿山、麗の七五三掛、大網の村々が一望に見渡せる。ここはかつて地蔵や十王堂(仏像は注連寺に納められている)、茶屋があり、注連寺・大日坊の出迎所になっていたという。道は下りになり、六地蔵とイタヤ清水へと通じる。イタヤ清水とは、近くにイタヤの木があるからか、あるいはすくって飲むとあまりにも冷たくて歯が痛むからという説が今に伝えられる。
大滝 図 22
大松と山神碑 図21
松根手前の旧道 図 20
松根庵 ( 松根城跡 ) 図19
松根の渡し場所 図 18
鉄門海上人が修行したという大滝。
赤松の巨木の下にある山神碑。
松根の集落に入る手前の旧道。
松根城跡になっている松根庵。赤川を利用した自然の堀跡が残っている。
赤川を渡る松根の渡しがあった櫛引橋付近。
六地蔵とイタヤ清水 図25
十王峠地蔵 図 24
十王峠 図 23
「六地蔵とイタヤ清水」注連寺十王峠に行く途中にあり、土地の人は地蔵さまに六回水をかけてから飲むという習わしとか。
十王峠頂上にあるお地蔵さま。今でもお賽銭や供物があげられていた。
庄内領郡中勝地跡図絵「十王峠より大網並びに霊山仰望」
十王峠頂上の旧道。一帯は赤土のため、「まるで鰻の背を登るが如し。一尺登って二尺滑る」とまで言われた難所だった。
表 紙
歴史街道・見聞録 人と自然との調和を目指して
未来へと続く道のり
歴史変遷 六十里越街道 奈良時代から現代まで
奈良・平安時代の六十里越街道
鎌倉時代の六十里越街道
戦国時代 ( 室町後期 ) の六十里越街道
江戸時代 の六十里越街道
明治時代以降 の六十里越街道
三山信仰と六十里越街道 お山詣りで栄えた宗教道路
三山信仰と六十里越街道
お山詣りと六十里越街道
お山詣りと宿場町の発展
現地調査一覧図 ( 内陸 )
現地調査一覧図 ( 庄内 )
道紀行 内陸から六十里越街道を歩く
白岩から本道寺へ
本道寺から志津へ
志津から湯殿山へ
道紀行 庄内から六十里越街道を歩く
松根から十王峠へ
十王峠から大網へ
大網から田麦俣へ
田麦俣から湯殿山へT
田麦俣から湯殿山へU
出羽三山と松尾芭蕉
古寺探訪 六十里越街道に沿って 作家 森 敦
発刊によせて
六十里越街道年譜
参考文献・資料
制作著作 国土交通省 東北地方整備局 酒田河川国道事務所