年号が昭和から平成に変わった今、鳴子ダムはできた時と同じように、青々と静かに水をたたえています。そよそよと風が吹くと、かすかに水面に波が立つのも、昔とまったく同じ風景です。
洪 水がおきて田や畑が水をかぶり、道路も水の下に隠れてしまって、学校に行くことが出来なかったのも、今では遠い遠い昔の話になりました。あの時は家の中に 水が入ってきて、急いで荷物を運び出しました。やがて雨がやむとまず自分の家をかたづけ、道路を通れるようにして、仲の良かった友達の家にも手伝いに行き ました。
そしてダムの計画ができた時、鬼首にあった26戸の家は、ダムの底に沈んでしまうことになりました。でもみんな、「生まれ育った家が無くなるのは寂しいけど、恐ろしい水害が無くなるのなら」と、あまり反対はしませんでした。
その人達は、川渡の方に土地をもらって、引っ越していきました。同じ鳴子でも交通の不便だったあの頃は、鬼首に住んでいる人にとって、川渡はずいぶん遠い 土地でした。小学4年生ぐらいの男の子が、川渡で生まれて初めて汽車を見たそうです。それほど鬼首と川渡は遠く離れていました。その男の子は、ガタンガタ ンと音をたてて走って行く汽車がめずらしく、1日中、ずっと汽車が走っているのを見ていたそうです。
ダムからさらに上流へ7キロメートルぐらい行くと、貯水池の周りの環境を守るため、河川敷に荒雄湖畔公園がつくられています。ファミリー広場やスポーツ広場、展望広場などがあり、水と遊ぶ工夫がされた美しい公園です。
鳴子温泉の発展は、このダム工事が影響しています。鳴子ダムの建設がはじまると、工事の人達がたくさんやって来て、鳴子町は経済的に豊かになりました。旅館や商店などでは建て直しをするところが多かったようです。
鳴子ダムは、町の発展にも大きな役割を果たしていったのです。