その雨は、昭和22年9月3日から降り始めました。夏から秋にかけてのこの季節、日本には次々に台風がやって来ます。そしてそれらの台風は、みんな外国人の女の人の名前が付けられました。この時はカスリンという名前の台風でした。
川の堤防は一つ、また一つと壊れていき、水があふれ出しました。それは田や畑へも流れ込み、まるで湖のようにすっかり覆ってしまいました。やがて道路へも 広がっていったのです。それでも雨は降り止みません15日の朝には鬼首にある荒雄川大橋が流されてしまいました。地ばんが緩んで山崩れもおき、鳴子温泉は 激しい流れと山崩れの両方で、たくさんの旅館や家が流されたり押しつぶされたりしました。道路には山から流れてきた土砂が、30センチ以上も積もっていま す。
江合川の側にあった鳴子分院は、川からあふれた激しい水を正面から受け、病室や研究室などが、あっという間に流れにのまれてしまいました。あまりに急な出 来事だったので、病気で入院していた人も病院で働いていた人も逃げ出すひまがなく、水の中に取り残されて危険な状態です。消防署の人たちは何度も危ない思 いをしながら、必死になって助け出す作業にとりかかりました。残った建物と皮の左岸をワイヤーでつなぎ、ムシロをテーブルのようにして、一人そしてまた一 人とつり上げていきます。全員の無事を確かめましたが、病院は江合川に沈んでしまいました。
この水害の被害を元に戻す作業が、やっと順調に進んでいた昭和23年9月12日、またまた台風が襲ってきました。アイオン台風です。この時も堤防が切れ、 水が流れ出して田畑を覆い、人々の大切な財産を奪ってしまいました。次の年の8月末、そしてさらに次の年の8月はじめにも台風や大雨がくり返し、鳴子の町 は、普通の生活ができなくなるほどの大きな被害を受けました。
4年間も続けておきたこの水害に、町の人々は「安心して生活できるよう、しっかりと川を治める工事をしてほしい」と県や国にお願いしました。県や国でもこの被害はとても大きいと考え、ついにダムの建設を決めたのです。