笹小屋跡を過ぎ、細越に至る途中に、戊辰戦争空壕の跡がある。会津鶴ケ城が落城した後、官軍は庄内藩を目指し、六十里越街道沿いの村々を焼き払い弾雨を降らせた。その時、官軍の来襲に備えて掘ったというのがこの塹壕跡である。余談ではあるが、白岩から肘析に行く途中の十部一峠近くの三合山の裏側(庄内側)に物凄く高い断崖があって、その一部に相当奥行きのある洞窟がある。あるとき、間沢に住む人が山菜採りに行って、この洞窟に入ってみると・・・。なんと長年の風雪で赤く錆び付いた大小様々な刀剣と銃が散らばっており、これらは、戊辰戦争のおり、敗走した官軍の桑名兵が捨てて行ったものらしい。 南へ歩を進めると、道は今までとはうって変わり、平担でなだらかなものになってくる。この辺はかなり広い湿地だが、ここにはかつて笹小屋があった。雑草の中に埋もれた敷石から十メートル四方くらいの小屋であったのではないかと推定される。ここには注連寺・大日坊両寺より出張して、湯殿山登拝者の便を図り、賄接待したところだ。明治末期頃には遠藤某が茶屋を経営し、豆腐を作って仙人沢で商っていた。仙人沢までの近道もこの人が開いたと伝えられ、今でもトーフ道と呼ばれている。このトーフ道を入るとすぐ、昭和13年建立の巨大な湯殿山碑がある。六十里越街道に戻り、有料道路に合流し湯殿山神社に至る。 出羽三山にやって来る行者には、大きく分けて二種類ある。一つには信者や一般大衆の行者、もう一つは斉度衆生を願い羽黒山で入峰し、月山の困難な道を越えて仙人沢での荒行に耐え、即身仏となるものである。即身仏とは生きながら我が身を犠牲にし、数多くの人々をこの世の苦しみから救い出し、極楽浄土に導びこうとする崇高な気持ちで、言葉にもならないくらいの荒行を行った後、自ら仏になる事である。庄内地方の即身仏(六体)はいずれも湯殿山の行場、仙人沢での苦行を積んだ人達だ。 行者は世間並みの栄達や快楽を一切断ち切り、ひたすら斉度衆生されることを念じつつ、修行に全身全霊を注ぎ込む。その間、どんな厳寒の中でも朝夕二回の水垢離をとり、湯殿山に参詣するのである。 即身仏になることは現代では禁止されているが、春の峰・夏の峰・秋味修行・冬の峰(現在「松例祭」としての祭事が行われている)として、出羽三山での修行は現代なお行者たちに引き継がれている。このようにして出羽三山信仰は現在に受け継がれ、なおかつ湯殿山は三山の聖地、修行の場として行者たちが修行に励んでいるのである。 その一方では、月山道路から湯殿山までの有料道路開通以来、気軽に家族連れがハイキングに訪れたり、スキーヤーがゲレンデヘ繰り出すという、開放された山という新しい”顔”も見せているのである。 仙人沢からは湯殿山が、もうすぐそこに見ることができ、私たちの二日間に渡る松根から湯殿山までの現地調査も終わりを告げる。行者たちもここから聖なる山を眺め、これまでの苦難を思い起こし、歩き通した充実感にしばしの間浸ったことだろう。