栗子峠の歴史 -昭和初期-
■自動車が通行できる道路整備
明治時代に掘られた初代の栗子隧道は素掘りトンネルであった。また、前後の道路の勾配も急なうえ屈曲も極めて激しかった。
やがて昭和の時代に入り、東北地方の道路にも自動車が出現するようになると、それまでの道路ではとても間にあわなくなった。
そこで、昭和8年4月に当時の内務省仙台土木出張所(現在の国土交通省東北地方整備局)により、国の直轄工事として、国道5号万世大路改良工事が着工されたのである。福島~山形の県境の二ツ小屋隧道脇に、二ツ小屋工場(現在の出張所)や宿舎を配置。二ツ小屋隧道と栗子隧道はコンクリートで巻き立てるなどして、明治時代に三島が開削した旧隧道を拡張して整備した。
このため、米沢側には山肌に今でも二つの坑口が並んでおり、時代の流れを象徴している。さらに、橋梁の幅員も6メートルとして、自動車の通行が可能なようにした。冬期の過酷な作業や資材運搬の困難を乗り越え、昭和十二年三月にようやく二代目の栗子道路が完成した。
この栗子道路の改修により、福島・米沢間は2時間30分で結ばれることになり、貨車による鉄道輸送と比べて、約30分の時間短縮をなし遂げることができたのである。