栗子峠の歴史 -明治期-

■馬車も通ることができる道   ■唯一馬車が通行できた道

 明治9年に鶴岡・山形・置賜の三県が合併し、山形県が誕生した時、三島通庸は、初代山形県令として就任した。三島通庸(みしまみちつね)
 当時、三島は、「県の経済を発展させるには、まず第一に交通の整備が必要である」という強い信念を持ち、新道開削に情熱を傾けた。 三島が開削した新道は、福島~中野村堰場~杉の平~二ツ小屋~山形県境を結ぶ福島県側を中野新道と称し、また、米沢~刈安~栗子山隧道東口までを結ぶ山形県側を、刈安新道と称した。
 三島は、まず、滝の沢と大北沢に架かる二本の石橋の工事を手がけた。山間の渓谷に、わずか 4ヶ月の短期間で完成させた。
 また「栗子山」の名称は、山の形が、栗の実を逆さにした形に似ていることから、三島通庸 自身が命名したと伝えられている。
 最大の難所とされた栗子隧道の建設は、当時、わが国の最長トンネルであった静岡県の「宇津ノ谷隧道」の四倍を越える876メートルもあった。