旧雄物川は新屋から秋田市街地近くを流れ、旭川、太平川と合流して土崎港に注いでいました。このため洪水になると雄物川が二つの川に逆流し、秋田市南部は水害常襲地となっておりました。
これら秋田市の水害を無くすため、放水路の開削が計画され、大正6年から国直轄事業として工事が開始されました。現在のような機械も無く、幾多の困難を克服して昭和13年4月、22年の歳月をかけて開削しました。
この時堀出された土砂約1,500万立方メートルは茨島、新屋の低湿地帯約177ヘクタールに埋め立てられ、秋田の大工業地帯が生まれたのです。放水路の完成により、秋田市から水害は無くなり、また、秋田臨海工業の夜明けとなって新産業都市秋田の基礎となりました。
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