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 代官所が置かれ、盛岡藩の西廻り航路の拠点湊町として北東北随一ともいわれた、野辺地町。中国への輸出品である尾去沢の銅・煎海鼠(干しナマコ)、ヒバや大豆など、領内の主要産物は奥州街道を通 って野辺地湊に集められ、上方へ積み出された。そして下り船は、さまざまな品物や文化を運んで来た。今も生活習慣や祭りなどに、上方の香りが残る町だ。

豪商が活躍した湊町

 幕末の「東案内記」に、「軒並ひ凡家数450軒も有、家造宣繁昌の所也」とあるように、街道筋である下町や本町・新町には、大商家や船問屋・船宿などが軒を連ねていた。新町にほど近い金沢町の大万旅館は明治33年の建築だが、その堂々たる造りが往時の風情を伝えている。
  迴船問屋の野村家は、南部でも指折りの豪商だった。幕末の頃の6代目野村治三郎は、牛方の通 行のために自費で3,000本の御影石を取り寄せ、本町通りの中央部に敷き詰めた。その道の姿は、昭和10年頃まであった。また、明治9年と14年の天皇巡幸時の行在所(天皇の仮の住まい)は、同治三郎の別 邸である。明治23年に焼失後同じ場所に再建され、庭園とともに今も役場隣に残っている。
  かつて湊役所や遠見番所、銅や大豆の蔵などが立ち並び、五百石船や千石船で賑わったという野辺地湊。その名残を止めるのが、石造りの「常夜燈」だ。文政10年(1827)、地元の豪商たちによって建立されたものである。

維新時の本州最後の戦場

 明治と改元されて2週間後の9月22日夜半、奥州街道はにわかに騒然となった。奥羽越列藩同盟を脱退して官軍となった津軽藩が、街道からこの町に侵攻し、同盟軍である南部藩士と壮絶な戦いを繰り広げたのだ。この「野辺地戦争」が、維新に伴う本州最後の戦闘であった。野辺地川近くの街道筋に「野辺地戦争戦死者の墓所」があり、27名の津軽藩士がひっそりと眠っている。
  街道は陸奥湾伝いに西へ進み、往時「馬門の御境番所」が置かれていた馬門村(現在の野辺地町馬門)に至る。さらに進むと、南部と津軽の「藩境塚」がある。双股川の河口をはさんで2つずつ、計4つの塚が築かれ、「四ツ森」とも呼ばれている。ここを過ぎると、いよいよ津軽領内だ。


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