青森河川国道事務所ホーム総合学習 > 奥州街道

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 代官所が置かれていた七戸町から、次の宿場町野辺地まではおよそ5里、20キロほどの行程である。
 松並木が続く国道4号に沿いながら、奥州街道は天間林村に入る。往時この地から野辺地へは、「天間舘一里塚」や「蒼前平一里塚」などが今も残る本街道(下道)のほかに、上道、坪道、あるいは近道とも呼ばれたもう一つの道があった。どちらも奥州街道整備以前から使われていた道だが、風雨を遮るものとてない原野を行く本街道より、山道なれど人家や茶屋が点在する上道が、旅人に好まれたようだ。

千曳神社とつぼのいしぶみ

 上道の天間林村と東北町との境近くに弘化2年(1845)坪村民建立の、「千曳神社 右千曳道 左野辺地道」と刻まれた追分石が立つ。千曳神社の1キロほど先、かつて尾山茶屋があったあたりに、現在「日本中央の碑」がある。
 平安時代末、都の文献に「日本の果ての陸奥の奥に、征夷大将軍坂上田村麻呂が日本中央と刻んだいしぶみがあり、そこはつぼという所だという」と記載され、その「壷の碑」伝説は、多くの歌にも詠まれ広まっていた。天明8年(1788)この地を訪れた紀行家菅江真澄は、碑は坪村か石文村にあるだろうとその所在を捜し、千曳神社の下に埋められているはずだと里人から教わっている。また明治9年、東北巡幸で同じ道を通 った明治天皇が「田村麻呂の石はどうなったか」と尋ねたことから、県は千曳神社の下を発掘調査したが、何も発見できなかった。

日本とは蝦夷地のこと?

 ところが昭和24年、「日本中央」と彫られた石が、東北町石文地区で見つかった。この石が伝説の「壷の碑」かどうかは未だ定かではないが、「日本中央」の日本は〈ひのもと〉と読んで日出づるところを意味し、当時蝦夷地を指していたともいわれる。この石碑周辺は、平成7年「日本中央の碑保存館」として整備され、町おこしに一役買っている。
 道は、なおも北に進む。菅江真澄の「清水目、久田などを通って行くと、道も狭いほど多くの牛に荷物を積んで追ってくる人がいる」との文が、領内で産出した銅や大豆などを野辺地湊へ運ぶ、牛方の通 行の賑わいぶりを伝える。
 ───間もなく、野辺地町だ。



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