“…この下流、最上峡の狭窄部は全くの橋のない川で、右岸の沓喰・外川・柏沢などの小村との往来は、すべて小舟に依存していた。買いものやその他の用で、古口本村・新庄・庄内に行くときにも、急病人を病院に運ぶときもすべて小舟である。これらの集落では家ごとに小舟を持ち、それぞれの用を足していた。「舟は俺たちの下駄と同じだ。」と村の人々は言っていた。
…その頃、村の方々にここに暮らしていて不便を感ずるのはどんなことか、と問うたことがある。山のものにも川のものにも恵まれているから、特には不便を感ずることはないが、夜間、急病人が出たとき、お産が始まったときは困る。特に冬季の吹雪のときは本当に難儀する、ということであった。このような場合は、村中総出で、丈夫な舟を二隻横にしっかりと結びつけ、病人を乗せ、松明で照らしながらみんなで漕ぐのがならわしだということであった。先年、分校の先生の奥さんが、夜中急に産気づき、難産に苦しんだとき、こうして渡して、無事新庄の病院に運んだ、とも話してくれた。…”
(「7渡舟の危険」 p94-95 より抜粋)