「『まちなか』力(りょく)への信頼」(基調講演)
  千葉大学 岡部明子 助教授

「『まちなか力』への信頼」というタイトルでお話しさせていただきます。「まちなか」と言いますと通常、経済力としての「まちなか」がまず思い浮かぶわけですが、「信頼」という言葉からなんとなく想像されるように、経済力だけではない「まちなか」が持っている力というのはどういうものがあるのかを皆さんと一緒に少し考えてみたいと思います。

I.『まちなか』

まず「まちなか」とは何なのだろうかということですが、ここでは入り口として「人の集う都市空間」であるという捉え方にしたいという共通の理解でお話ししていこうと思います。従いまして、決してある一定の人口規模がある、ある一定の人口密度がある、商業集積がどれだけあるといったことで「まちなか」を判断・ランク付けするという発想からは少し離れて考えてみようと思います。
通常ですと「まちなか」や中心市街地は人口規模などによってランク付けされ、理解されているのが一般的であろうと思います。例えば50万人規模の人口集積がある都市であれば、百貨店・病院・映画館などフルセットのあらゆる生活インフラが整っている「まちなか」が対応し、数万から十万規模であれば食料品の専門店のような最寄り品のお店に加え、衣料・家電などの買回り品のお店が揃い、飲食店などもあるというようなことが、今まで地域を計画する時には考えられてきたわけですが、車社会が急激に進展し、必ずしも生活圏域を排他的に設定できないような今日の状況におきましては、人口規模に応じて、どれだけの「まちなか」があるということではなくなってきているのではないだろうかという問題意識を持っております。従って、その人口規模や密度のような量的なもので「まちなか」をランク付けするという発想から離れて、「人が集う」という都市空間の質の面から「まちなか」を考えてみようと思います。

私はヨーロッパに10年ほど住んでいたということもありますので、少しヨーロッパ都市のお話をさせていただこうと思います。

まず、今ヨーロッパ都市というのが注目されているのは、かなりの期間、都市として持続してきたからだと指摘されています。個々の都市と複合体としての都市のシステムを少し分けて考えてみますと、まず個々の都市ですと、現在あるヨーロッパの都市はだいたい10世紀から14世紀(「都市化の第一の波」と言われている時期)にほぼ出揃っていると言われています。つまり今日ある都市のルーツをたどるとその辺りの時代にたどり着きます。この頃誕生した都市で、消えてしまった都市はほとんど無いと言えます。15世紀初めの時点で、だいたい現在のヨーロッパの都市が固まっていました。

当時、世界最大の都市はパリで、人口が30万人にも達しないくらいでした。この中世の時代は、かなり都市が際立っていた時代でした。5万の人口がいればかなり立派な都市であったし、たとえ1万以下でも、町や村というより小都市という名に相応しいような、非常に都市的な要素を持っていました。そして現在でも、この時にできた比較的中・小の都市が隣接したヨーロッパの都市全体のシステムが維持されております。ロシアを除いたヨーロッパの場合、人口1万人以上の都市の中心間の距離が平均で16kmであるのに対して、アジアでは28km、アメリカでは48kmであり、ヨーロッパはかなり中・小都市が隣接している都市システムを持っています。こうしたことが、工業化社会の時にはそれほど注目されなかったわけですが、現在、少し社会的な構造が変わってきており、見直されているわけです。

1万人以下でもかなり立派な都市となる要素とはどういうことかと言いますと、例えば今ここでお見せしている写真は、山あいの小さな都市で、人口は1300人くらいですが、十分に人が集う場所があり、都市的な集積があります。スペインとフランスの国境付近の都市で、かなりの面積の後背地を持っておりますが、1300人の人口でもこれだけの十分な都市の佇まいを持っています。これはスペインの中山間地だけではなく、特に地中海沿岸のトスカーナの小都市などでは、人口が1万人に全然届かないくらいで、1000人くらいでも十分に都市らしく、きちんとした人の賑わう「まちなか」があります。つまり、「人口が減る」=「まちなか」が失われるということでは必ずしもないのではないかということを、こうした都市は示しているのではないかと思います。


II.欧州中世都市を再評価する

ヨーロッパの中世都市を再評価する動きが最近ヨーロッパでは出てきております。その背景としては、かつて工業化社会の時には産業を持ってくればそれが大きなエンジンとなり、人口も増やし、経済活動も増やし、それによって都市は発展できたわけですが、工業化社会から脱工業化した今、そういうパワフルな都市を発展させるエンジンが無い中、「サステイナブルな発展」を目指すようになってきています。ヨーロッパの過去の歴史を遡ってみると、実は、近代より以前の中世で、サステイナブルな発展に近い、あまり成長しなくてもそれなりに都市の中で新陳代謝が起こり、豊かさを市民が追求できるような都市社会が実現していたのではないかと言われ、知識社会と呼ばれる現在、近代以前の中世都市を再評価しようという動きが出てきています。

「新しい中世」という言葉も出てきており、(これはもっと広い意味で使われることもありますが)いろいろな意味で中世の価値観や中世が持っていた社会経済システムの知恵を現代にどのように活かせるかを模索するようになりました。日本でも早い時期に田中明彦さんが「新しい中世※1」というタイトルで書いていますが、これも世界システム全般についてで、小さくまとまった都市の話ではないですが、中世都市を再評価する話に通じているかと思います。

では具体的になぜ、中世都市は定常的な発展、サステイナブルな発展に最も近いような発展を可能にしたかについて、中世に限らずヨーロッパ都市研究の第一人者とされますイタリア人の「レオナルド・ベネゴロー」という人が、「European Cities」の中で中世都市の定常的な発展を支えた4つの要件というのを示しています。

一つ目は通りや広場など人間的な公共空間が存在したことです。これだけ読むとすごく当たり前なことですが、中世以前のローマ殖民都市ではかなり俯瞰的に都市が計画されており、それに対してヨーロッパの中世都市はいろいろな所で、それぞれ内発的に都市形成が行われており、個人が少しずつ建物をつくり、その建物の前に公共空間をつくるというようにお互いに申し合わせるかたちで都市をつくっていたため、個人の集積でありながら全体の利益を考えたような都市ができていたことが中世都市の大きな特質であったと言っています。プライベートな空間とパブリックな空間が、個人のレベルではそれほど峻別されておらず、パブリックな空間も個人の愛着のある空間となっていて、それぞれの都市が同じような広場を持つのではなく、たまたまそこに住む個人がつくった公共空間によって、それぞれ違った都市空間となっていました。そういう意味で、ローマ植民都市地とも異なり、近代都市計画で計画した都市とも異なる、民主的な都市空間のつくり方ができていたということです。

二つ目は多様な主体が協同で都市を運営していたことです。これも最近、都市のマネジメントの話では多様な主体が参画しなければいけないというのが定型句のように言われています。これを中世都市に当てはめて考えてみますと、中世都市というのはキリスト教修道院や教会などの宗教的な主体と政治的な主体、そして経済的な主体の3つの主体が協働で都市を運営していました。その主体が、一番まちの中心の広場に自然と肩を寄せ合って集まっていました。都市が多様な主体により運営されると、焦点がぼけて、何かと市民には分かりにくくなりますが、一つの広場でそれぞれ違う価値観を持った主体が肩を寄せ合っていることによって、フィジカルな空間と対応させて、都市がどのように運営されているかが理解できたことが、長い間中世都市がある程度発展してきた条件の一つであったと言われています。

三つ目は市壁に囲まれていたことです。市壁に囲まれていた為に都市がスプロールすることは無く、人口が増えると都市は上へと密度を高める方向に発展したので、これはこれで別の問題を孕んでいますが、人と人との関係が疎になるような集積ではなく、むしろ密になるような方向に市壁が働いたということです。

四つ目は変化し続けるダイナミズムを持っていたことです。中世では建物がいつも工事中でした。特に教会などは一代でつくるものではなく、何代にも亘ってつくっていました。教会だけでなく、民間の建物もあまり個人の名前に関することもなく、都市全体の運営として常に少しずつ変化していて完成形というのをもっていませんでした。

この4つの条件が中世都市の要件であり、現代にどう活かせるのかは、もうワンクッションおいて考えなければならず、必ずしも中世を再現すれば良いというわけではありません。


現在、それを参照しようとした一つとして、ヨーロッパレベルの影響力のある都市政策提言があります。これは、1990年にEUの執行機関である欧州委員会の環境政策総局が中心となって出した都市環境に関する提言書で、「都市環境緑書」といいます。これは環境総局が初めて都市というものを対象として政策提言を行ったものです。通常、環境省が都市環境を考えるというと、「きれいな空気と緑あふれるまち」というイメージがまず頭に浮かびます。日本でも、もし環境省がそのような環境提言書を出すとしたら、表紙には緑や水のグリーンやブルーのイメージが出てくるかなと思います。今お見せしているのが、「都市環境緑書」の表紙になります。環境省が出しているのに、このような都市的な表紙ということがすごく象徴的なのです。これは12世紀のジョットによりアッシジの回廊の中に描かれている中世都市の壁画です。これはフレスコ画でありまして、素材の対象となったのはアレッゾという都市です。つまり、環境とは言いつつも、文化的な環境や社会的な環境についてで、非常に広い視点を持っているということが表紙からも容易に想像できるかと思います。この「都市環境緑書」はかなりセンセーショナルなもので、環境政策担当の方が地域開発向けの補助金を環境都市と結びつけて獲得しようと、EUの予算が通貨統合に向けて急速に拡充していく1990年代の初めに実は出された文書で、かなり刺激的なことが書かれており、その後の都市政策に非常に影響を与えた文書だと言われています。この文書では、一般的なことももちろん書かれていますが、非常に強調されていることは、機能主義に対する批判、つまり、近代都市計画思想が都市を駄目にしてしまったということです。つまり都市を単機能でゾーニングしてきたことが、都市の中で肩を寄せ合った経済や社会、文化、政治が相互にぶつかることによって生まれるダイナミズムというようなものを近代都市計画というものが押さえ込んでしまったということです。本来近代より以前の都市は、都市の中にあるいろいろな価値観が互いにぶつかることによって生まれるパワーを原動力にして発展していました。都市本来の本質的なダイナミズムが効率的な都市をつくることでかなり押さえ込まれてきてしまったと批判されています。先ほど言いましたベネゴローの4つの条件というのを現代的なかたちでもう一度都市に取り戻すことを都市環境緑書では考えようとしていたわけです。どうしても都市環境問題というと表面的な対症療法に陥るのだけれども、これはより本質的なところは何なのかについて書かれたものの一つで、かなりのウエイトで近代都市計画のあり方というものを批判しているわけです。

もちろん、このような単機能のゾーニングの考え方を早くから批判されており、1961年のジェーン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の生と死※2』やヨーロッパの中でも1960年代から近代都市計画が非人間的な都市をつくっていくという批判はあり、決してこの緑書が新しいというわけではありません。しかし60年代からの批判は、結局はマジョリティにはならなくていつもマイノリティの主張にとどまっていて、単なる古き良きヨーロッパや都市に対するノスタルジーでしかなく、現代の問題を何ら解決するものではないという指摘の方がどちらかと言えば勝っており、なかなか大きな声にはなってきませんでした。それがいよいよ脱工業化社会が到来して、そう大きな成長が望めなくなってきた時点で、サステイナブルな発展という考え方をみんなが共有するようになり、近代都市計画思想を根本から批判するような考え方が受け入れられるようになってきました。

一つ注目すべきことは、この緑書は EU レベルの政策提言ということです。日本も含めて各国はどうしても近代都市計画の用途地域地区をベースとした都市計画をしており、現在でもその微調整で何とか新しい時代に適用しようとしているため、なかなか自己批判がしづらい状況でしたので、一切都市計画の実績の無い EU レベルで、比較的気軽に大きな声で政策提言できたということはあります。それに対してこの都市環境緑書は越権行為だという批判もあります。というのは、ヨーロッパの場合は、ほとんどの都市において、都市計画権限は地方自治体に排他的に属しており、国さえも口を出せない領域なのに、なぜ EU が政策提言をするのかということです。そういうわけで、一様にこれが全部支持されているわけではありませんが、やはり時代が知識社会に転換していく中で、都市の本質というものを考えさせるという意味では、非常に影響力のあった文書です。その中で、やはり「まちなか」というものを戦略的に位置付けていくという考え方が示されています。多様な考え方を持った人や団体がある程度密に存在することによって、そこから何か力が生まれると。それが今日のタイトルの『まちなか力』というものなのですが、そういうもので何とか都市の発展を考えていこうというような戦略的なアプローチが、ヨーロッパの多くの都市で行われるようになってきました。

日本との話で一つ私が注目すべきものと思うことは、日本ではフィジカルな空間の話と、都市社会の話や経済活動の話を分離して議論されることが多いのですが、こうした中世都市の議論が出てくるのをみていると、ヨーロッパ都市は「空間をどうつくるか」と「どういう社会なのか」ということが二人三脚で語られていて、空間が社会に影響を与え、社会が空間に影響を与えるような中でどういった空間をつくっていくか、あるいはどういった社会政策をとっていくかということが議論されています。先ほどのベネゴローの話もそうですが、多様な主体がどうやって都市を運営していくか、それがフィジカルな空間に対応しているというところが今の日本に欠けている点ではないかと考えます。空間と社会を連携させて考える思想的なバックとしてあるのは、都市社会学や都市地理学の人達の考え方、例えばマン・エルカスやデビッド・ハーベイなどの考え方があるかと思います。つまり、市民の社会行動が都市の空間形態にそのまま現れていくというものではなく、都市の空間形態が市民の社会行動をある方向に誘導し、規定していくものでもない、その両者が上手く絡み合うことによって都市空間ができていくという考え方をベースにしていると思います。

そういう視点で少し考えてみますと、大都市と中都市と小都市の場合で、多少考え方は違ってきます。大都市の場合ですと、今ヨーロッパの都市政策で、この「まちなか」がどう戦略的に政策に位置付けられているかというと、現在ヨーロッパの都市では都市内の分極化、社会的な分極化が進んでいます。元気な都市ほど都市間で人が移動するようになったこともありますし、都市競争も良くも悪くも激しくなってきていますから、元気の良い都市ほど非常に高額所得の人も集まるようになり、一方で貧困層も呼び寄せることで分極化が非常に進んでいます。これを何とかしようとしていますが、富の再配分のかたちでは上手くいかないということが、福祉国家を貫いてきたヨーロッパの経験でもあります。つまり、低所得者層や移民層に生活保護を与えると、彼らはおそらく生活保護に依存する生活を選んでしまい、それに慣れてしまうため、格差は是正する方向には向かいません。そこで彼らの自発的に自分達の生活を変えていこうという力はどこから生まれるのかということで、特に疲弊地区(都市の中心がブラックホールのようになっている部分)をターゲットとして、貧困層が集まって住んでしまったようなところに、いろんな人達やいろんな考えをもった人が交わることによって、逆に比較的豊かな層も想像的なことを考えていくというような、そういう新しいものが生まれる場に「まちなか」を位置付けると同時に、社会的な結束を強める為のツールとして「まちなか」を位置付けるというのが大都市だろうと思います。

中都市の場合はもう少し違って、 20 万〜 30 万位の都市ですと、基本的にはそこに住んでいる人達が集まれるような「まちなか」があって、そこのホストの集団に外来者の人達もアットホームな感じで迎え入れられるような都市空間があり、最近はこれがヨーロッパのエグゼクティブな人達を惹きつけています。最近、ヨーロッパレベルでの会合というのが非常に増えており、その会場場所として中都市を多く選んでいます。特に重要な会談、首脳会談が開かれる時に、聞いたことも無いような中都市で開催されていることがよくあります。中都市の方が、フットワークが軽い、セキュリティ的に楽というか、狭い範囲で完結していてしかも「まちなか」で打ち解けて話し合えるようなホストシティとしての良い空間があります。その方が地元の人と外来者の人との新たな出会いも、大都市よりもかえって起こり易いような環境にあるので、ベンチャービジネスのホームタウンとして可能性を持っています。まだ、それほど実績があるわけではないのですが、可能性をもっているとみられているところだと思います。

そしてとても小さな都市、日本でいえば村や町というようなところでは、また違ったかたちの「まちなか」を持っています。冒頭にお見せした写真のような都市の場合には、最寄りの都市の人達が週末居住する場所に使っているところもあり、そこに一つの週末コミュニティができています。大都市では時間に追われていて決まった人に決まった時間にしか会わない生活をしている中で、週末にはもう少し偶発的な出会いが小都市の「まちなか」にあるということです。そこからも何か新しいビジネスがひょっとして生まれるかもしれないというような魅力をもち、都市の規模に応じてそれぞれに「まちなか」というものを持っている、ずっとヨーロッパの伝統に支えられている「まちなか」が持っているポテンシャルというものが評価されています。

これはバーミンガムの例ですが、バーミンガムも重工業都市で疲弊したところでしたが、 G8 の先進国サミットと連携させて、旧市街の路地に職住近接のまちとして再生して今もすごく人が賑わう「まちなか」となっています。サミット会場を旧市街のすぐ近くにとったというのが重要だったと思います。ただし、郊外には相変わらず捨てられた産業跡地が広大に残っていて、中心市街地が再生したことでバーミンガムの都市のイメージが上がったことは確実な成果ですが、どこまでその波及効果で都市全体が上手く発展していくかは未知数な点があろうかと思います。

今までは都市単体の話をしてきましたが、こうしたその一つ一つの都市が「まちなか」を持っていることは、都市システムを俯瞰したような重要な意味を持っています。これは中小都市が連携した都市システムで、日本でも結構評判になっている北イタリアの都市システムです。都市システムとして評判になっているというよりは、第 3 のイタリアと呼ばれるように、中小都市がそれなりにブランドイメージを構築して、そのブランド力で中小都市がネットワークをつくり、大規模な製造業と負けない競争力を発揮している北イタリアからボローニャ、中部イタリアまで辺りの地帯が、地域経済面等で非常に注目されています。この中小企業によるネットワークをフィジカルに支えているのは、地理的には中小都市が連携する都市システムで、それを主に研究しているトリノ出身のデマ・テースという地理学者の論文からとった図ですが、星型の真ん中にあるのがミラノになります。そのミラノから北側の山麓にかけてそれほど大きくない結節点が、主従の関係ではなくて対等な関係でネットワークをどんどん増殖させており、これによって一極集中の大都市にある弊害にはそれほど悩まされずに、競争力のある、地域経済を支える都市システムをつくっているということを彼は指摘しています。彼自身は競争力がここから出ているということよりも、むしろ何故イタリアで南北間格差が知識社会に移行して以来、かえって拡大しているのかに関心があるように読めます。このような中小都市システムが、第 3 のイタリアと言われる地域経済システムを支えているということが分かります。中小都市システムが、今のような競争力の激しい時代に北イタリアで維持されているということは、結局はそれぞれが個性的な「まちなか」をしっかりと守っているということだと思います。もしこれが無いとすると、今のような物流や情報等の様々なフローが激しく動く時代に、弱いところは強いところに吸収されていってしまう宿命にあるわけで、こうした都市システムが踏ん張れているのは、特に北イタリアでしっかりした「まちなか」があるということだろうと思います。そうした「まちなか」に対する信頼というのは都市に対する信頼ということになると思うのですが、今のようなかたちの都市が中世の頃に生まれて、産業革命の時にも都市がやはり核となり、工場を集め、その工場が磁石となって周辺の農地から人を集めたように、現代でもグローバルなフローというものを知識社会でどうやって知的集積を図るかが問題になっています。今でも都市がそうしたものを吸い寄せる磁石になるのだという信頼が、ヨーロッパの場合にはあると思います。けれども、旧態然としたまちをただ守っていれば、競争力を発揮できるかといえばそうではないと言っています。彼は、「都市は受動的から能動的へ、長い歴史の経緯の単なる産物から地方の組織力が生み出すものへ、またその限定された地理的領域のみで享受される価値から交換できる価値へ、そして最後に保全すべき資産、その資産とはただ守っているだけではなくてグローバル競争に掛ける保険資産へ。」と、ある意味都市というものを攻めの姿勢に転じていかなければならないということを言っています。今までヨーロッパはなんとなく「まちなか」を保全してきましたが、それをもっと攻めの道具に使っていこうというような方向が見られます。

このようにヨーロッパの話をしますと、確かに日本も宿場町と宿場町が非常に近接していて、おそらくヨーロッパの人口 1 万の都市の中心間の距離が 16km だとすると、日本は馬車すらそれほど発達していなかったわけですから、歩いて行ける距離に隣の集落があったことを考えますと、より密な都市システムというものを日本は伝統的に持っていたということが分かります。ヨーロッパのような可能性を持っていることが言える一方で、戦後、無批判にアメリカ型の豊かさというものを求めて車社会に依存し、自由気ままな生活の味を占めてしまった日本では、非常に制約の多く、中小都市システムとして「まちなか」を大切にしていくというような発想はでてきていないのではないかと、逆戻りするのは難しいのではないかという疑問を持たれる方も多いのではないかと思います。

 

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