石淵ダム
昭和21年着手の石淵ダムは重力式コンクリートダムとして計画された。ところが、終戦直後の混乱と物資不足からセメントの入手とその輸送が困難であること、調査により地質がコンクリートダムにはなじまないこと、近くに良質な原石があったことから、表面遮水壁型のックフィルダムに計画が変更された。当時、国内でロックフィルダムを建設した実績がなく、石淵ダム初代所長の若林氏は「設計は、辞書片手に外国の専門書を翻訳して参考にした。昭和13年に黒部川上流で発生した大崩落を調査し、天然ロックフィルダムが崩れることなく、川を堰き止めていたことを目の当たりにし確信はあった」と語っている。
ところが、建設事務所だけの力では手に負えず、土木研究所や民間のダム経験者を集め旧建設省の本省に検討委員会を設置。縮小モデルなどによる実験や構造計算などを繰り返し、国内初となるロックフィルダムの設計がようやく完成した。
田瀬ダム
戦局による工事中断後の昭和25年に工事を再開した田瀬ダム計画は、昭和22年、23年のカスリン・アイオンの影響を受けて大きく変更された。
ダム高の5m嵩上の他、洪水調節能力を大幅に高めるため洪水吐ゲートを水深43.1mと深い位置に設ける必要があった。
当時の日本には高圧ゲートを施工した実績がなかったため国内での開発・製造を断念し、厳しい輸入制限が続いていた中でアメリカのフィリップ・アンド・デビス社に発注してこれを輸入することで実現した。後の国内ダムの高圧放流管ならびに高圧ゲートの技術モデルとなり、日本のダム技術発展に大きく寄与する画期的な技術として確立された。令和元年には、日本機械学会からその功績が評価され、高圧スライドゲートを含む「田瀬ダムの高圧放流設備」が「機械遺産」に認定された。
田瀬ダム
寒さの厳しい東北に建設される田瀬ダムの現場では、施工後の凍結融解対策としてAEコンクリートを採用するべく研究が進められた。そして、およそ100日間にわたりコンクリート打設が中断されていた昭和25年の冬期間を利用して、アメリカからAE材を輸入し外国の文献やデータを参考に実験を繰り返し、現場で試験的にコンクリート打設を行った。その結果を確認したうえで、翌26年3月10日から AEコンクリートに切り換えて工事を行った。
今日、一般的に使われるコンクリートとして定着しているAEコンクリートだが、田瀬ダムにおいて日本で最初に確立された技術だったのである。
湯田ダム
洪水調節機能を高めるため深部に設けられた余水吐用オリフィスゲートは、高水圧状態でも半開放流操作できるゲート圧着方式のオリフィス用高圧ラジアルゲートを導入した。これは田瀬ダムの高圧スライド方式のゲートを応用したものだが、田瀬ダムのゲートは全開か全閉しかできないという弱点があった。そこで、大水深下でゲートに強い水圧を受ける状態でも半開操作と水密保持を確実に行うことができ、なおかつ経済性を備えた新しい方式を導入することにしたのである。
湯田ダム
6門あるクレストゲートは、非常用に使用するため使用頻度は少ないが堤高89.5mの堤頂部付近から堤体に沿って流れ落ちる放流水は膨大な落下エネルギーを内在していることから、そのまま流下させると川床や対岸を洗掘してしまう恐れがあるため、その力を減勢させるようフリップバケットを採用した。フリップバケットは、ダム堤体に沿って流れる落ちる水を堤体の途中にスキーのジャンプ台のような構造物を設けたもので、水を空中へと跳ね上げ大気との摩擦によって減勢させるもので、湯田ダムの外観上の特徴にもなっている。
四十四田ダム
四十四田ダムの付近には、良質な骨材を確保できる原石山がなかった。堤体コンクリートの骨材は、北上川の支川である雫石川の川砂利を採取することになったが、雫石川の石には不良岩の軟石がおよそ半分も含まれ、コンクリートの耐久性に悪影響を及ぼす恐れがあった。そこで、我が国の土木界としては初の試みとなるドラム型重液選別を採用し不良骨材を除去した。原料の石塊一つさえも、万全を期すために徹底してこだわり建設を進めたのである。重液には、マグネタイトやフェロシリコンなどの固体粉末と水を混合した高比重の懸濁液を用い不良骨材だけを浮かせて分離するもので、鉱山関係などではすでに取り入れられていた方法である。
四十四田ダム
四十四田ダムの堤体建設予定地の地形は、谷地形を形成していない平坦地であり、地質もこれまでの常識では考えられない軟弱な基盤の上に建設を進めるという無謀とも思える計画だった。当初は、重力式コンクリートダムを主体として検討が進められたが、右岸にコンクリートダムをとりつける堅固な岩盤がなかったことから、コンクリートダムを主体として左右岸をアースダムとする複合ダムとする構造が採用された。固有振動の異なるコンクリートとフィルの接続部は弱点となりやすいことから、特に慎重な検討しできるだけ接合面を大きくするとともに上下流方向にも勾配をつけて、地震時にもより安全となるよう工夫された。
御所ダム
御所ダムの建設を難しくしたもの、それはダム建設地の軟弱な地質にあった。ダムサイトは左岸右岸で異なる地質が分布しているため、右岸側は重力式コンクリートダム、左岸側は中央コア型ロックフィルダムと、異なる2つのタイプのダムを結合した複合ダムとした。この結節部には四十四田ダムで施工実績のある重力式鉄筋コンクリート・セパレートウォール工法が用いられ、河床部の一番深いところに異なる材質でつくられた堤体をしっかりと連結した。
胆沢ダム
昭和28年に完成した石淵ダムは、昭和22年のカスリン台風の実績をもとに策定された『北上川上流改修計画(第1回改定)』によって建設されたが、昭和48年、治水の安全度を高めるため百年に一度の洪水を対象とした『北上川水系工事実施基本計画』に改められたことにより、石淵ダムの洪水調節機能を高めるための嵩上げ計画が浮上した。
しかし、これに加えて地域から繰り返し強い要望のあった灌漑用水のさらなる確保となるとこれまでの11倍もの容量が必要となるため、嵩上げのみでは十分な対応ができない。そこで石淵ダム下流約1.8㎞に新たなダムを建設することとなり、国内最大級のロックフィルダム「胆沢ダム」が平成25年に完成した。
こうして胆沢ダムへと使命と役割を引き継いだ石淵ダムは、洪水吐ゲートが撤去された後胆沢ダムの湖底へと没したが、胆沢ダムへ流入する土砂をくい止める貯砂ダムという新たな役割を担って今も湖底で胆沢ダムを支え続けている。
普段、目にすることができない石淵ダムだが、渇水などによって胆沢ダムの貯水位が下がったときだけ、私たちの眼前にその勇姿を現してくれる。