北上川の歴史

北上川の名前の由来

この地方は日本書紀にでてくる『武内宿禰、東国より還りまいてきて奏して言さく、東の夷の中に日高見国(ひたかみのくに)あり…』(景行天皇27年2月条)の日高見国ではないか、といわれています。日高見国がどこにあるかは、はっきりとしていませんが、朝廷の権力のとどかない辺境の地をさしたものと考えられています。
その日高見国を流れる川「日高見国の母なる川」の意味が、日高見川(ヒタカミ川)→キタカミ川、やがて北上川とあて字をするようになったといわれています。

舟運の歴史 -舟による北上川の利用

岩手丸

蒸気船(岩手丸)

北上川を利用した舟の交流は平泉文化に見られるように、古くから行われていましたが、最もさかんに行われたのは江戸時代です。北上川流域でとれた米は江戸で売られ、各藩の財政を支えました。黒沢尻(現在の北上市)には、南部藩の御蔵奉行がおかれ、上流を航行する小操(おぐり)舟から下流を航行するひらた舟に荷物を積替える拠点となっていました。
明治の時代になると、船会社ができ、一関と石巻の間を蒸気船が航行し、北上川流域は大きな賑わいを見せました。宮沢賢治も蒸気船岩手丸で船旅を楽しんだといいます。

川に鮭が戻ってきた!~清流化対策~

写真 鮭

汚染された松川と北上川の合流点

北上川は昔からきれいな水が流れ、豊富な水量が人々の生活をうるおしてきました。大正時代に入ると支川赤川の上流に松尾鉱山ができ、そこから流出する鉱毒水で赤川は酸性水に汚染され、その量が多くなるにつれ、北上川にも汚染が広がりました。昭和20年代後半からは魚が生息できないほどになり、北上川は「死の川」となり人々は遠ざかりました。
その後県や国が水質を改善する様々な事業を行い、北上川の水質は徐々に改善されてきました。昭和49年秋に盛岡市内を流れる中津川で鮭のそ上が確認されました。

旧松尾鉱山新中和処理施設

写真

昭和56年に完成したこの施設は、鉄バクテリアで酸化させた鉱毒水を炭酸カルシウムで中和する新方式を採用しました。
さらに従来の処理で問題となっていた四十四田ダムへの生成沈殿物の流入も防ぐことができました。

北上川ライブラリー

北上川のマメ知識