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 山道を登り五戸町に入った奥州街道は、標高277メートルの「高山」に至る。 四方に眺望が開け、明治9年(1876)の天皇巡幸時には、ここで野立てが行われた。道を下った浅水地区のあたりは、街道や山林が昔のままの風景を保ち、一里塚や道祖神も残って往時を偲ばせる。

代官所があった五戸町

 「北奥路程記」に「町通りよろし」とある五戸町は、賑やかな宿場町であった。古くから名馬の産地として知られ、五戸通 28村を所轄する代官所が置かれていた。平成10年、その場所に「歴史みらいパーク」が完成し、五戸代官所が復元された。当時の代官所門が、簡素ながらも堂々とした姿を見せる。荒町には、天明年間(1781〜88)建築の「江渡家住宅」が残る。南部藩在郷武士の家屋で、カヤブキ屋根に寄せ棟造りの建物が、今も凛として原形を保っている。
 五戸町は、「坂とサッカーと桜(馬)肉の町」をキャッチフレーズにしているほど、中心部に坂が多い。藩政時代に盛んに開田が進められた際、集落を高台に持って来たためである。──街道は代官所近くから、現在はコンクリートの階段道になっているサイトウ坂を下って、五戸橋を渡る。

三本木の由来は白タモの巨木

 やがて街道は国道4号にほぼ沿い、左右に碁盤状の十和田市街地を見ながら進むが、この街が発展するのは、安政6年(1859)新渡戸傳親子が稲生川の上水工事に成功し、明治に入って軍馬補充部が置かれてからのことだ。それ以前は、橘南谿が天明五年(1785)の「東遊記」に、「三本木平という野原あり。唯平々たる芝原にて四方目にさわるものなし。此東西凡二日路、南北半日路程ありと云、其間に人家もなく樹木1本も見えず──」と書いたような、荒涼たる原野であった。
 「三本木」の地名は、元町の大清水神社にあったという、3本に分かれた白タモの巨木に由来する。街道筋の土手山に立つ大ケヤキは、参勤交代でこの地を通 った松前侯のお手植えと伝えられる。しばらく進むと、池ノ平一里塚だ。嘉永6年(1853)の七戸通 百姓一揆の時に、集結地となった場所に近い。──間もなく七戸町である。

 


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