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 近くに馬淵川、遠くに名久井岳に連なる丘陵を右に見ながら、街道は南部町に入る。この町名は、昭和30年に2カ村が合併して南部村と名付けられたことに始まり、さほど古い話ではない。しかし、町そのものの歴史は古く、初代南部光行がこの町に館を築いたのが、建久3年(1192)。それから約380年間、南部氏の根拠地であった。「えんぶり」や「南部駒踊り」、「ナニャドヤラ盆踊り」などの民俗芸能も、この町が発祥地だ。

今も残る南部氏の名残

 街道筋の小向橋近くに、「本(もと)三戸八幡宮」がある。八戸の櫛引八幡宮と共に盛岡藩の崇敬を受け、毎年祭礼時には藩主の代参があり、流鏑馬(やぶさめ)が奉納されていた。境内にそびえ立つ樹齢800年という大杉は、そんな華やかな光景を眺めたに違いない。
 街道をさらに進むと、南部家の菩提寺・三光寺に至る。境内の「南部利康霊屋」は、27代利直(初代盛岡藩主)が早世した4男のために建てた、桃山様式の廟。三戸郷(田子町・三戸町・南部町)1カ年の収納高1万石が投入されたその豪華な造りは、当時、藩領の鹿角の金山から豊富に金が産出し、藩の財政が最も潤沢な時代だったことを物語る。三光寺には他に、「南部利直霊屋」なども残っている。

「銅の道」でもあった街道

  牛よつらかろサーハエ、
   いまひと辛抱よー
 「南部牛追唄」の一節である。鹿角の尾去沢鉱山でとれた銅の運搬には、牛が使われた。背にズシリと重い銅を乗せた牛は、鹿角街道を進み、三戸からは奥州街道を北上して大阪への積出港野辺地へ。藩の大事な財源であった銅を運んだ牛は、冬を除く半年間で延べ3000頭を数えた。南部地方一帯は食用菊「阿房宮」の栽培が盛んだが、藩主が京都の九条家から貰い受けて、南部町に植えたのが始まりという。とすれば、往時「牛追唄」をうたいながら通 った牛方たちも、このあたりで一面の黄色い菊畑を目にしたかも知れない。
 街道は、「長坂」と呼ばれた1.2キロの山道を登って、五戸町へと続く。

 


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