東北地方の地方都市というのは、東京や大阪と違って、それぞれの自治体の市街地は、ほぼ 100%郊外に広大な農村地域を抱えています。もともとは、地方都市は市街地と広大な農村地域が一体的に、かなり密接的な関係を持って成り立っていたと思います。農村から農作物などを市街地に持ち寄るようなことが、もともとの地方都市の成り立ちでした。ところが1960年代後半から70年代、地方の農作物を全国規模のブランド化に仕立て上げていきます。これは農水省がとった方法ですが、それぞれの地域の農作物を全国ブランドにして、これを全国ネットで東京などの大市場に流していく農産物安定供給法という法律ができました。これによって、わたしたちが住んでいるまちの郊外の農作物は、ダイレクトに大都市に流れ、しかもリアルタイムでいくらで売れるか、卸せるかということが流れていますので、地方で売るよりは東京に流していくという仕組みに変わり、農協や経済連が中心になって、このような技術を整備していく。その時期から徐々に市街地と周辺農村の関係が途切れていきました。わたしたちの都市では、中心市街地の空洞化の問題は、周辺の農村の人たちにとってはあまり関心のないことになってしまいました。まして市会議員が38名いると、中心市街地から選ばれた市会議員は3、4名と、ほとんどが周辺の選出の市会議員ですので、中心市街地活性化基本計画とはなんだというレベルの話になりかねません。都市が元気になることと農村部が元気になることとを、一体的に捉えなければならないという感じがしています。先程のまちなか広場の話もそうですが、昔はまちなか広場では地域の農作物がたくさん流出していました。いまはほとんど市場は無くなってきました。ヨーロッパでは成り立っているマーケットがたくさんあるわけですね。日本ではそのような風景がほとんど消え失せてしまった。ルールを作らないと維持出来なわけですね。飛騨の高山にある宮川のほとりの朝市は、そういうルールで成り立っている。農家だけが参加していますので、農家の人たちは、高山に観光客がくることは、自分たちの農作物の売り上げにダイレクトに関係するため、高山の風景をつくることに非常に積極的です。そういう関係を、わたしたちのまちは農村と市街地を合わせて持っているので、これを含めて考えないと、コンセンサスの形成が途切れてしまうなと思っているところです。
|