資料に残されている雄物川の治水工事で最も古いものでは、下流については慶長7年(1602年)佐竹藩が、秋田藩主になってから、家来に命じて、川を掘りかえしたとあります。 上流については、その後元和元年(1615年)秋田藩主佐竹義宣が、3千両の工費と3年の年月をかけて、現在の雄物川町沼館付近で行った河川改修といわれています。 当時の改修の目的は、洪水を防ぎ舟運の便を図る低水路工事とかんがい用水の確保にあったとされています。
藩政時代には「新田開発」にともない子吉川の用水がさかんに求められてきましたが、洪水の被害もしばしば発生していました。 このため中流部では、寛永年間(1624〜1643年)にショートカットが行われた記録も残っており、その後各地で改修工事が行われています。 本格的な改修工事が始まったのは明治以降です。その後大正、昭和を通じて水害防止のため、流域の市町村は子吉川改修期成同盟会をつくり、国などに働きかけてきました。 昭和46年、子吉川は1級河川に指定され、石沢川と合わせ河口から約27kmは国の事業として改修がすすめられています。
子吉川の改修と畑中喜右衛門(きえもん) 子吉川は昔から大洪水を繰り返して、川岸が浸食されるなど、大変こわい川でもありました。江戸時代、今の由利本荘市吉沢地区の12戸が危険になったため、当時、前郷の地主、畑中喜右衛門がこれを心配して、代官所に川の改修を直訴しました。 しかし、喜右衛門は農民扇動の罪で処刑されました。処刑されるとき「我なき後もこの魂はここにとどまり、必ず川の流れを変えるであろう」と遺言したといわれています。その後予言どおり大洪水が発生しました。その時に川の流れが現在のように変わり、美田がつくられるようになりました。 村人はこの勇敢な行いに感謝し、供養碑を建ててまつっています。