HOME 河川 昭和22年大水害から60年 洪水を忘れずに水害防止に挑む
「水を治めるものは天下をを治める」ということばが言い伝えられています。
「治水」は、古くから国を治める者にとって、最も重要な仕事のひとつでした。
繰り返されてきた洪水にどのように挑んできたのか、治水の歩みについて紹介します。
 
 
藩政時代の治水

藩政時代に改修が行われた雄物川町付近
 

 資料に残されている雄物川の治水工事で最も古いものでは、下流については慶長7年(1602年)佐竹藩が、秋田藩主になってから、家来に命じて、川を掘りかえしたとあります。
 上流については、その後元和元年(1615年)秋田藩主佐竹義宣が、3千両の工費と3年の年月をかけて、現在の雄物川町沼館付近で行った河川改修といわれています。
 当時の改修の目的は、洪水を防ぎ舟運の便を図る低水路工事とかんがい用水の確保にあったとされています。

雄物川の2大治水事業
【雄物川放水路】
 
放水路は、河口に近いところで洪水の流れを直接海へ流し出すための人工の水路です。
 水害多発地域を守る対策として、「雄物川河口から上流10km地点で雄物川をしめきり、新屋から丘陵を掘削して日本海に放流する2kmの新しい水路をつくる」ことにしました。
 大工事は大正6年に着手され、昭和13年に完成しました。
 
【大曲捷水路(ショートカット)】
捷水路は、蛇行している川で曲がりくねったところを真っ直ぐに流れるようにして洪水を防ぐ人工の水路のことで、ショート カットとも呼ばれています。
大きく曲がっている雄物川とその頂点で合流する丸子川が、増水すると水があふれ、昭和22年の大洪水では市街地住宅の大部分が、浸水被害に見舞われました。
このため雄物川をショートカットして、真っ直ぐな川にし、川幅を広げ、丸子川の合流点を下流に移動させることとなりまし た。昭和28年から工事が始まり16年かかって完成しました。
 
 

川を治める2大事業、水害写真、変わりゆく風景がご覧いただけます。
懐かしの雄物川
雄物川放水路は平成20年に70周年を迎えます。「もし、雄物川放水路が無かったら昭和22年洪水で秋田市の浸水はどうなっていたのか?」など雄物川放水路についてさらに詳しく知りたい方は
整備効果事例「雄物川放水路」

 

 藩政時代には「新田開発」にともない子吉川の用水がさかんに求められてきましたが、洪水の被害もしばしば発生していました。
 このため中流部では、寛永年間(1624〜1643年)にショートカットが行われた記録も残っており、その後各地で改修工事が行われています。
 本格的な改修工事が始まったのは明治以降です。その後大正、昭和を通じて水害防止のため、流域の市町村は子吉川改修期成同盟会をつくり、国などに働きかけてきました。
 昭和46年、子吉川は1級河川に指定され、石沢川と合わせ河口から約27kmは国の事業として改修がすすめられています。


畑中喜右衛門の碑
 

子吉川の改修と畑中喜右衛門(きえもん)
子吉川は昔から大洪水を繰り返して、川岸が浸食されるなど、大変こわい川でもありました。江戸時代、今の由利本荘市吉沢地区の12戸が危険になったため、当時、前郷の地主、畑中喜右衛門がこれを心配して、代官所に川の改修を直訴しました。
しかし、喜右衛門は農民扇動の罪で処刑されました。処刑されるとき「我なき後もこの魂はここにとどまり、必ず川の流れを変えるであろう」と遺言したといわれています。その後予言どおり大洪水が発生しました。その時に川の流れが現在のように変わり、美田がつくられるようになりました。
村人はこの勇敢な行いに感謝し、供養碑を建ててまつっています。

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