HOME 河川 昭和22年大水害から60年 洪水の記憶を語り継ぐ
昭和22年7月洪水を経験された地域の方々にお話を伺いました。
 
顔写真   ヒョウでも落ちたうおうなそんな雨であった。
斉藤兼太郎さん
(平沢地区)
  昭和22年の洪水は、物凄い雨でした。降ってくる雨は、まるで“ヒョウでも落ちてきたような”そういう雨でした。それと、とにかく水の出方が早く、その早さを想像できた人はいませんでした。
  私の家では、家の中が浸水し、慌てて荷物や畳を梁に上げました。その間にも辺りはどんどん増水し、馬の移動時には、水のために随分迂回させられました。そしてその帰りとなると、帰る道が無いほど増水していました。結局、朝方ようやく船で帰ったものでした。
 
顔写真   一時間にも水位が増し、水の流れる音が物凄かった。
秋山勝美さん
(平沢地区)
 昭和22年の洪水は、とにかく水の出方が早かったんです。平沢を含む平らなところ一帯が1時間に30センチ位も増水してきました。この増水状況だと、もう考えている暇が無くなります。私の家は低いところにあったので、増水に気が付いたのは早かったのですが、馬を移動して帰ってきたら家は腰の高さまで浸水していました。あのような増水では、今の水防訓練は全く役に立たないでしょう。
 それと増水が夜であったため、川は全く見えず、暗闇の中で水の流れる物凄い音だけ聞こえてきて、とても恐ろしい思いをしました。
     
顔写真   あたり一面が水浸しとなり、二日間も家で孤立してしまった。
伊藤忠夫さん
(上大部地区)
  昭和22年7月の大洪水で、水沢橋は流されてしまいました。しかし昭和22年に限らず、それに近い規模の洪水は何回もありました。
 当時は、ほとんどの家に舟があり、雄物川が溢れて一帯が水浸しになると、舟で移動したものでした。しかし、この昭和22年の洪水のときは、川の流れが大変なもので、恐ろしくて川から舟を持って来られませんでした。そのため、2日間も家で孤立した状態が続きました。その恐ろしさや不安はその場に立たされた人でないと分かりません。
 
顔写真   周辺一帯が水面と化し、まるで海のようであった。
金 孝司さん
(妙法地区)
  昭和22年洪水の時は、上流側に見える相川の田圃一帯は全て水面になってしまいました。その水面はあまりにも広く、まるで海を見ているかのようでした。そしてその水面は、まっすぐ私の所に迫ってくるような感じでした。その時の水の怖さというのは、ずっと忘れられません。
     
顔写真   病気の母を背負って高台に避難
小川専一さん
(旧本荘市土谷地区)
  昭和21年から消防に奉職していたので、洪水の日は徹夜で警備にあたっていました。
  当時は「鳥海山に雨が降ると8時間後に水があふれる」という説があったので、みんなでそれを目安にして水害に対する備えを行ったものです。
  その日はちょうど私の母親が病気だったので、みんなで背負って高台の家に避難をし、夜になってからは、真っ暗な中、かがり火を焚いて励まし合いながら見張りをしました。
  洪水に対しては、みんなで一緒に対応したので、特に怖さはなかったですね。
 
顔写真   いかだを組んで、道路を泳いで渡った
生駒重孝さん
(旧本荘市出戸町地区)
 当時、私は小学校3年生でした。まだ小さかったので40〜50cmの水の中を歩くのが大変で、いかだを組んで道路を泳いで渡ったものです。
  私の家は、本荘市内でも最も低地にあったので年中水害に悩まされていたのですが、米を中2階にあげるなど、日頃から備えを行っていました。
  当時の水位を示す跡が家や蔵に残っていたので、新しく家を建てる時には、それよりも高くなるように土台を作ったんです。
     
顔写真   家中の畳を梁にあげて、水から防護
片岡勇一さん
(旧本荘市花畑町地区)
  私は消防団員をやっていました。招集がかかって詰め所に行ったのですが、段々水が出てきて、椅子に上がって水をしのがなければなりませんでした。
  家では、板敷きぎりぎりまで水が上がっていたので、畳をおこして梁の上にあげなければならず、大変な思いをしました。
  また、詰め所の向かいの家が火事になり、洪水の中での火災という、珍しい現場に居合わせました。
 
顔写真   りんご箱の上に畳をあげて睡眠を
工藤信一さん
(旧本荘市美倉町地区)
 私の家では荒物屋をやっていたので、梁に長木を渡した上にわら工品や炭をあげ、濡れないようにしていました。
  また、その頃はどこの家でも汲み取り式のトイレでしたので、母親からは「トイレの上に板を渡し、その上に重い石をあげて、流れないようにしなければならない」と、いつも言われていました。
  水が引いた後も床がなかなか乾かないので、しばらくの間は、りんごの木箱の上に木を渡し、その上に畳をあげて布団を敷いて眠りました。
     
顔写真   水防団までもが避難したほどの規模
高橋 廣さん
(旧由利町曲沢地区)
  昭和40年から子吉川中川原水門の水閘門操作員をしていますが、当時は消防団員として出動しました。
  私の住んでいる地域にあった堤防は、救農土木で作った小さなものだったので、洪水で侵食され、線路にも水があふれ、歩くこともできませんでした。
  水が上がっても大したことはないのですが、けが人が出ては大変だということで、みんなと相談して水防団を避難させました。
 
顔写真   洪水の被害で、一面が砂漠地帯に
須田 昭さん
(旧由利町前郷地区)
  当時、私は農業委員会に勤めていたのですが、そこでの最初の仕事が、洪水の被害で砂漠地帯になっていた久保田地区の測量だったんです。初めてその砂漠を見たときは、日本の景色だとは思えませんでした。
  その後は、軌道を敷き、トロッコで砂運びをしました。
私が思うには、戦時中に乱伐を行ったり、資材不足で護岸の補修ができなかったのが原因だと思います。
     
顔写真   堤防が流されるかどうかが心配だった
佐々木 勲さん
(旧由利町西川町地区)
  私の家は川の側で製材所をやっていたため、洪水の度に泥につかるという経験をしていました。「雨が降ったら水があがる」という覚悟をして、製材所の機械のモーターを高い所にあげる用意をしていました。
  水があがった後は、1m位の泥が残っていました。また、橋が流れるのはいつものことなので、堤防が私達を守ってくれるかどうかだけが心配でした。
   
 
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