赤川今昔物語-わたしたちの赤川

恐ろしい水害

赤川は昔から水害に悩まされてきました。

「暴れ川」の異名を持つ赤川はこれまで幾度となくはんらんと浸水を繰り返してきました。記録として残っている一番古い水害は長承2年(1134)に起こった水害で、そのときは50日間も水がひかなかったといわれています。

最近の主な水害は、昭和12年・18年・28年・44年・62年に起こりました。昭和62年の水害では、鼠ヶ関で308ミリもの大雨を記録し、大きな被害をもたらしました。

赤川の水害年表

明治
明治12年 赤川大洪水、かつてない被害
明治14年 大雨風により赤川はんらん。破堤9箇所、浸水2950町歩
明治35年 県内に暴風雨。家屋の全壊5120戸、死者75人、負傷者360人超える
明治42年 融雪洪水で各河川がはんらん
大正
大正2年 豪雨のため最上川・赤川大洪水
大正4年 暴風雨で赤川洪水、大きな被害
大正10年 豪雨のため赤川はんらん
-赤川から最上川を分離するための工事が始まる-
大正15年 豪雨のため赤川・内川・最上川がはんらん
昭和
昭和3年 豪雨のため赤川・最上川がはんらん
昭和5年 県下に豪雨、洪水。大きな被害
昭和12年 鶴岡市内の菅原橋が豪雨により流失
昭和15年 赤川大洪水
昭和18年 赤川流域300ミリを超える豪雨
昭和21年 庄内地方豪雨
昭和28年 前線停滞による豪雨(行方不明2人 家屋流失破損20戸 浸水1625戸 田畑流失454ヘクタール)
-最上川と赤川を分離する締切工事完成-
昭和42年 羽越豪雨
昭和44年 断続的集中豪雨のため赤川大洪水
昭和46年 豪雨のため赤川洪水、23箇所で交通遮断
昭和62年 赤川大洪水(家屋流失破損4戸 浸水368戸 田畑流失812ヘクタール 土砂崩れ83箇所)
可動式ポンプによる濁水排水の様子(昭和56年6月)

可動式ポンプによる濁水排水の様子
(昭和56年6月)

道路を奪われ、舟で非難する住民(昭和41年7月)

道路を奪われ、舟で非難する住民
(昭和41年7月)

泥水下に沈んだ穀倉地(昭和41年7月)

泥水下に沈んだ穀倉地
(昭和41年7月)

増水状態が続き待機する消防団(昭和62年8月)

増水状態が続き待機する消防団
(昭和62年8月)

冠水した路面(昭和62年8月)

冠水した路面
(昭和62年8月)

刻々と上がる水位を見つめる住民(昭和49年7月)

刻々と上がる水位を見つめる住民
(昭和49年7月)

治水工事に活躍した人

榊田清兵衛
(1864~1929)

榊田清兵衛

榊田清兵衛は赤川の治水工事を行った代表的な人物です。

大雨のたびに洪水が起こるため、田圃をつぶして最上川につながっている赤川の川幅を広げるという治水工事の話を聞いた清兵衛は、政府に願い出て、田圃をつぶすかわりに砂丘を掘って新しい川の流れをつくる工事を始めてもらいました。

この工事により赤川は最上川から独立した川になりました。

赤川左岸荒屋(昭和10年11月)

赤川左岸荒屋(昭和10年11月)

土砂運搬作業の様子(昭和8年)

土砂運搬作業の様子(昭和8年)

赤川の昔と今

水害を防ぐために

水害をふせぐために、川幅を広くしたり、護岸工事により川の両岸を強くしたり、堤防を作ったり、ダムや水門を設置するなど、さまざまな工事が行われています。

赤川放水路拡幅事業

洪水の水が安全に流れるように川幅を広げ、風による飛砂をふせぐために斜面にクロマツを植えています。

改修前の放水路

改修前の放水路

改修中の放水路

改修中の放水路
(平成11年12月31日撮影)

堤防

洪水が流れ込まないようにします。

ダム

大雨の時など下流に流れる水の量を調整します。

水門

洪水が支流に流れないようにします。