羽州街道 大鰐

青森県(津軽)の羽州街道 大鰐

大鰐

 古くからの温泉場であった大鰐では、藩主が度々入湯したという。このあたりから羽州街道の松並木は見事で太平洋戦争末期まで残っていたという。江戸末期、平尾魯仙は岩木山を眺めつつ美しい松並木街道を「合浦山水観」に収めている。
碇ヶ関古懸から線路を越えて
大鰐町唐牛(かろうじ)に通じる旧国道
大鰐町唐牛の弘前側旧道脇にある「唐牛城跡」の丘
周辺は墓地になっており、天明の飢饉の餓死者供養塔がある。
大鰐町長峰(旧下長峰村)の一里塚付近に建つ羽州街道の石碑
このあたりは、昔の道路に舗装がかけられている。
この近くには、「長峰館跡」も存在する。
大鰐町長峰の大鰐除雪ステーション
ここに一次改築を担当した大鰐国道出張所があった。
大鰐町長峰から北を望む
左側が旧国道。
右側が現国道(大鰐バイパスS39完成)
大鰐町蔵館
大鰐バイパスと阿闍羅山
右手に蔵館小学校
蔵館小学校敷地内にある「蔵館跡」
明治天皇が水を飲んだ場所が存在
大鰐町内の温泉街の中心部を通る旧国道。 旧国道沿いの羽州街道の石碑

大円寺

 大円寺(大鰐町蔵館、高野山真言宗大圓寺)は、津軽では「大鰐の大日様」として篤い信仰を集める名所。
 大円寺の起源は、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に際し、本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置したことに始まる。
 後に大安国寺は荒廃し、鎌倉時代建久2年(1191)、阿闍羅山千坊(せんぼう)と称された「高伯寺」(円智上人建立)に移奉された。
 慶安3年(1650)、津軽三代藩主・信義が鷹の病気平癒を祈願したところ、病は治り、これを喜んだ信義は、本尊を京都で補修させ、同年に御堂を現在の場所(大円寺のある場所)に建立、「神岡山(じんごうざん)高伯寺」と号し、高伯寺と本尊を移安。以来、津軽家代々の崇敬を受け、江戸時代末期まで「大日様」として信仰を集めてきた。

 明治4年(1871)、神仏分離の際、弘前市から大円寺が移り、高伯寺の名は姿を消すことになった。

 ここに安置されている大日様と呼ばれる“国指定重要文化財”の本尊は、穏やかさのなかにも意思的な力強さを感じさせる、重厚な仏像です。青森県を代表する、このすばらしい仏教文化の大作、実は大日如来ではなく、阿弥陀如来坐像です。それではなぜ阿弥陀様を大日様として信仰したのか・・・。「本当の大日如 来像は胎内仏として中に納められている」という伝説もあり、大正時代に実際に調査されたが、何も出ず、この信仰の謎は、未だ解明されていない。

 津軽三代藩主信義は大鰐の湯を好み、この大円寺近くに御仮屋を建てていた。
宵宮でにぎわう大円寺 羽州街道石碑の隣には
大円寺の石碑
大円寺向かいには大鰐町の史跡「はぎかつら」
現在の国道はトンネルで通過 羽州街道は、現在のトンネルの上(剣ヶ鼻山)を越え宿河原へつながる。
トンネル下にある峠につながる道
剣ヶ鼻山を下りると宿川原
代官所や脇道番所も置かれていた。
大鰐町宿川原の旧国道
大鰐町八幡館の旧国道
町道鯖石(さばいし)宿川原線
大鰐町鯖石の旧国道
町道上鯖石線
現在の国道は弘南鉄道大鰐線と平行に走っている。
大鰐町八幡館の国道脇にある大鰐八幡追分石建立は不明
碑面には「追分」「正面碇ヶ関通」「左弘前通」「右?」と刻まれいる。
おそらく右は「乳井通り」を示すもの。
ここ鯖石は「弘前通り」と「乳井通り」の追分になっていた。
現在は十字路であるが、その昔は三差路であった。
「乳井通り」は、八幡館から尾上を経由し黒石城下から浪岡に通じる脇街道であった。