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 奥州街道の本県最初の町が、三戸である。青森県下北から岩手県北部にわたる広大な地域を治めていた南部氏は、戦国時代末期、居城・聖寿寺館(南部町)の炎上後、三戸の小高い丘に城を構えた。以来この町を拠点に、勢力を強めていく。南部氏の居城は後に福岡城、盛岡城と移り、寛永10年(1633)三戸城は廃城とされ、奥州街道の時代には「三戸古城」と呼ばれていた。この城跡は現在城山公園として整備され、県南随一の桜の名所となっている。

盛岡藩三戸通の中心地

 街道は、町を縦断するメインストリートとして今も残り、小商いの低い軒並みが往時の佇まいを偲ばせる。街道沿いの同心町、八日町、二日町といった町名や多くの由緒ある神社・仏閣に、城下町の名残をとどめる。二日町の裏通 りにある三戸中央病院が、三戸代官所と野馬役所が置かれていた場所だ。代官所は盛岡藩三戸通 33カ村を所管し、野馬役所は、古くから馬産地として名高かった又重野(倉石村〜五戸町)、住谷野(三戸町〜南部町)などの藩営牧場「南部九牧」全てを統括していた。隣のNTT三戸には蔵役所があった。この界隈、在府小路町というのもなにやらゆかしい。

街道筋に残る故事

 二日町から六日町へ至る街道に、「黄金橋」が架かっている。この橋にはいわれが残り、南部12代政行(1388年没)の詠んだ歌が後村上天皇に賞賛され、褒美に京都加茂川の橋の擬宝珠を模することを許されたという。元和9年(1623)の銘がある青銅の擬宝珠を、城山公園の三戸城温故館で見ることができる。六日町の一角、野馬別 当であった旧一戸家の庭には、盛岡移城直後に移植されたという「関根の松」が、見事な姿を見せる。樹齢380年以上とされるこの松は、三戸町の栄枯盛衰をどんな思いで見つめて来たのだろうか。
 町外れの馬暦神社境内には、「唐馬の碑」が立つ。八代将軍吉宗から南部藩に預けられ、住谷野で飼育されたペルシャ馬を記念して、寛保3年(1743)に建立された。
 ここを過ぎて、街道は南部町へと続く。

 


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