戦国争乱の世が過ぎ、近世期に入ると、諸産業も目覚ましく発展しました。紅花生産もそのひとつです。昔、最上と呼ばれた村山地方は、特に最上川の気象的現象が紅花栽培に適し、上方との需給とあいまって急速に発展しました。元禄の頃には、盆地内の全畑地の3分の1が紅花畑であったといわれています。この最上紅花を紅の本場たる京都に送るため、河港の大石田まで羽州街道を車馬で陸送、大石田から酒田まで最上川を下り、酒田から海船で敦賀の港に至り、再び湖船に積んで大津まで運び、京都に車や馬で運んだといいます。この紅花と引き換えに、お雛様に代表される上方の物資を、最上川は盛んに運んできました。山形や谷地に大商人が発達したのもそのためです。 |

最上紅花
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