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松尾鉱山は大正3年(1914年)に硫黄・硫化鉱の鉱山として操業が開始され、最盛期には従業員4,000人、人口15,000人を数え、東洋一の硫黄鉱山として栄えていました。
八幡平の標高1,000mの広大な敷地に、近代的な集合住宅、学校、病院及び劇場などが建てられ、最盛期には「雲上の楽園」と呼ばれて繁栄していました。
しかし、昭和40年代に入ると石油精製時の脱硫副産物として安い硫黄が生産されるようになり、60年間の生産の幕を閉じ、昭和47年(1972年)に閉山しました。
その後、露天掘の跡からは、pH2の強酸性水が流出し、北上川は死の川となったため、当時の建設省により暫定中和処理が行われ、坑内に雨水がしみ込まないように、「赤川保全水路(3面張)」が施工されております。
このような状況の中、新中和処理施設の建設などにより水質が改善され、北上川は「母なる川」として蘇りました。 赤川砂防施設は、旧松尾鉱山の周辺と下流の赤川沿いに建設され、酸性水発生源の地山の安定を図るとともに、土砂災害から下流に住む人々を守る役割を担っています。 |